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渋谷丸南終幕 あぁ またも渋谷は変わる

50年来の付き合い 名残惜しい渋谷ファッション

ユフィの育った街・渋谷。
めまぐるしい変化は「下北沢駅/渋谷駅が変わった」でも書いたが、今度はあって当たり前だった『生地屋丸南』の閉店で止めをさされた感じだ。
1964年、雑貨店としてオープンしたが、東京五輪開催の整備事業によるビル建設で7階建てビルに変わり、生地屋として生まれ変わった。
丸南全景

地下1階、地上4階の売り場は、木綿や高級品、付属品などに階毎に別れていて、狭いながらも品揃えは確かだった。
東京新聞によると、『渋谷ファッション、プロ御用達の生地の聖地、終幕』とあり、9月16日で閉店とか。
理由は「ビルの老朽化」というのだが、古いビルなのは確か。

この細長いビルの中を、狭い階段を上り下りし、エレベーターで上下し、ユフィは50年近くも愛用させてもらった。
始めは小・中学校の家庭科の教材で利用、ドレメ時代は入り浸りだった。
ファッション関係の学校の生徒や、プロのアシスタントなどが、商品知識豊富なスタッフと相談したりしていた。

結婚前は自分と母用の服のため、サーヤ誕生後は女3人の服のため、よく通っていた。
ここのスタッフの特徴は、かなり年配の男性が多いことで、相談には心強い味方だったし、馴染の人もいた。
新聞にも載っているが、これらのスタッフのアドバイスは的確で、学生達はずいぶん助けられていただろう。

場所が109の向かい側、ハチ公広場からスクランブル交差点を渡った先の道玄坂のすぐ下の角。
一等地でのビルは、今度の「オリンピック・パラリンピックの整備事業」の対象にもなるのだろうか。
なんだか感慨深い…。
1階の外で残った生地の整理中

この渋谷には、もう1軒「トーア・東亜」という生地屋があって、「丸南」のすぐ近くだったのだが、かなり以前に公園通り・パルコの近所に移転している。
こちらもまた、狭くて雑多に多種類の生地が並べられていて、目的の生地を探すのが非常に大変。
以前の「東亜」は、広いビルで2階まであり、安売りで楽しい店だったように覚えている。

今回は『ビル老朽化』での閉店だが、丸南倒産と言うことでもないのなら、渋谷駅から遠くても再開は望めないのか。
ユフィは近年は目が弱くなって、気長にデザインから考えて製図を起こし、裁断して仕立てるのが面倒になってきている。
あ、お得意さんがそういう人ばかりになっては、生地屋は立ち行かなくなる訳だ。

「良い柄は大企業で早めに買い占めるから、生地屋まで回って来ない」とスタッフに聞いたことがあった。
そう、既製品の服のほうが『良い・素敵な柄』が多くなっては、それは大変だ。
母にしろ、ユフィにしろ、人とは違う色柄の服が欲しくての手づくりだったのだから…。

母のドレスで思い出深いのは、夏の爽やかな涼しげな生地で、黒地に凄く大きな赤いカーネーションの柄のワンピースだ。
60代で作ったのだが、生地で見るより仕上がったほうが派手になり、4、5年は着なかった。
60代後半になって突然着始めたのだが、白髪が赤いカーネーションに映えて、よく似合っていたことを思い出す。

16日までに丸南に行きたい。
最後の姿を写真に残しておきたい、と思いたって昼食もそこそこに家を出る。
渋谷に行くときは、下北沢への買い物と違って、少しファッションもアップする。
今回は『丸南とお別れ』なので、母の遺品のアンサンブルにベージュのパンツで。
焦げ茶地に唐草柄のアンサンブル

着いて見たら、なんと半分シャッターが下りていて、1階部分にしか品物がない。
今朝の新聞で知った人が、早くも押しかけたのか、布生地は殆ど売り切れ状態で、売れ残りを更に半値などにしている。
エレベーターに貼られた売り尽くしのビラ 店内はボタンばかり

とても16日までは持たなかったろうから、早めに出てきて正解だった。
最後の買い物に、ボタンなどは必要もないので、冬のコタツに掛けるクロス生地を3種類だけ購入して「別れを告げた」。
シャッターが半分閉まった丸南
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