きちんと塩でお清めしてから燃えるゴミに出す
「門松」は歳神様をお迎えする「目印」なのだそうな。
毎年の習慣で、なんとなく大掃除を済ませた門に立てていたけれど、長く続けられてきた習慣にはキチンと訳があるようで…。
12月にここ何年がパートとして続けている【ランサーズ】の仕事で、「年末年始」の記事作成の依頼があり、詳しく調べて書いたから間違いはないみたい。
「門松」は新年に各家に降りてくる『歳神様』の目印なのだそうだ。
そして「しめ飾り」は、「この家が清められている印」なのだそうな。
新年を迎えるということは、「歳神様をお迎えして、その年の幸福を授けてもらうこと」なので、準備はきちんと滞りなく済ませなければならない。
まず大掃除は毎年のことで、我が家では全員参加の日にちを選んで済ませる。
そして「門松」の用意は掃除の済んだ昼過ぎに、決まった花屋で求めている。
下北沢の大型スーパーでも、近くの小さなスーパーでも売っているし、しかも安いのだが、何十年も続いている習慣はやめられないもの。
なんだか他の店での購入は、気がとがめるというか躊躇われるのだ。
渋谷時代は母が、結婚して世田谷に移っても母と同居だったから、母の習慣に習ってきただけなのだが、母の出身は岩手の田舎だから行事ごとはかなり違ったのだろう。
東京の習慣は、母も近所に倣っていただけだと思われる。
昔は渋谷でも下北沢でも、「門松やしめ縄」を売る露天が出たものだったし、現在のようにスーパーでは売っていなかった、と思うので、大半の家庭では露天商で購入したと思われる。
母が年老いてからは、町の花屋さんで購入するようになり、顔なじみの店が移っても出向いている。
今年は年末の28日が大掃除で、例年の30日よりは早くなったので、門松もたくさん並んでいる。
背の高い葉のしっかり整ったものが多かったのは、いつもより早かったせいか。
小さいのを出してもらい、輪飾りも付けてもらっての1.300円。
やはりスーパーよりは高めだが、なんだかスーパーで購入も軽々しいような…。
だって「門に飾る門松」は『歳神様が降りる際の目印』だと言われているのだから。
門松の無い家には『歳神様は降りてこられない』ということになり、新年が来ないことにもなる?
でも、年が明けてから買い物に出たとき、門松のない家を何軒も見たけれど、門松を立てる新年の習慣も廃れてきているということか。
門松を立てる日にちも決まっていて、29日は「苦立て」 31日は「一夜飾り」として避けるので、28日が良いらしい。
我が家は毎年30日に立てていたのだが、今回は28日の陽のある内にジャックに立ててもらった。
その際、「輪飾り」を掛けるのがこの近辺の習わしで、近所でも大体がこの形式。
門には門松、玄関に「しめ飾り」をする家は、少ないように思われる。
「門松」は歳神様の降りる目印で、「しめ飾り」は『お迎えの準備が調った印』なのだとか。
東京風に簡単にした形が「門松にしめ飾り」なのかも知れない。
二つの意味を重ねているのだから、『歳神様』はいらしてくださるはず。
さて、今回の「門松の始末」について、やっと入りまーす。
いろいろとお勉強して最後にたどり着いた『究極の門松の始末方法』とは、「燃えるゴミに出してしまうこと」だそうな。
えーっ、だって毎年「燃えるゴミ」で出していたし、近所の家々の分もそのまま束ねてたくさんのゴミ袋の上に乗っかっていたし…。
「歳神様の目印と清浄の印」は、『ハイ、ポイッ』のゴミにしてしまっていた…。
地方では、というか都内でも『どんど焼き』などの行事をする神社はあるようなのだが、そんな習慣のある地域では神社に納めるとのこと。
松の内の7日に外した松飾としめ縄は、塩でお清めした白い紙で包み、ゴミの日迄保管して置くことが「究極の方法」だと知って、ビックリした。
これが究極なら、今までの『ハイ、ポイッ』は、どういうことになるの?
知らないということは恐ろしいが、今までにも長年続けていたから、バチがあたっていたのかいないのか、も分からない。
ともかく知った以上は、今年からはやらなくては…。
暮れのお歳暮で頂いたものの中に、真っ白な薄紙が5枚もあったので取り置きして準備。
塩は卓上用の塩入れからパッパッは無いだろうし、一応は食卓塩の箱から手にとって払うことに。
「左、右、真ん中」と塩を振ってお清めをし、松と飾りを包んで白い紐で結んでみた。
白い紙に白い塩で見にくい
次の朝、家庭ゴミとは別にして、いつものゴミ置き場に出す。
例年とは違って、清清しい気分になれただろうか…。
でも、知らないって『なんだか恐ろしい』という気もするし、別にどうということもないような気もするし…。
なにしろ、門松を飾らなくても新年は来るのだから…。
なんとなく淋しい気にもなるけれど、色々なことを知った我が家には『今年は良いことが続くかな』の期待もなくは無い。 |