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早稲田大学レトロ研究会 乃 皆賛江

私は、昭和17年(1942)2月19日 午年生 現在82歳
また、昭和41年10月 早稲田大学 文学部 芸術学科 演劇専修(当時の呼称)卒業

 最近、貴研究会の活動の様子を幾つかのテレビ放映で散見している。貴兄姉たちの、レトロへの関わりが、如何辺にあるのかは、解りかねているが、私のレトロは果たしてどの辺りにあるのかを、改めて考えさせてくれるきっかけになったことは、確かな所。最近、所謂、終活に思い至って、幾つかの雑多なものを整理し始めていることも、確かな所。
 しかし、捨てるに捨てられぬ、整理するに忍びないものの案外多いことに、迷っている。そこで、この機会をよいきっかけに、自宅に仕舞ってあったもの、葛飾の姉の家に眠っているものなどを、年代順に記録しておくことにした。

 私にとってのレトロは、多分、私の生まれた昭和17年位前のもの、私の知らない世代のものになるのだと思う。17年は大東亜戦争の只中、そうしてみるとレトロは戦前に、戦後は回顧ということになるか。懐古と回顧に如何ほどの違いがあるかは判然としないが、記録を整理していくと、なんとなく分かってくるような気がしている。

 以下、振返って見ることにする。貴兄姉諸君の何やらの参考になれば、と思う。

 生まれる以前のこと 四人の兄と姉、兄弟たちの楽しみは、蓄音機とレコードだった 童謡 流行歌 軍歌 落語に講談 そしてクラシック

 大正の半ば
 我が家の原点、二階建て家屋が建設された。

 定礎(ていそ)の銘板もないので、具体的な建築日は分からない。まだ町には数件の民家しかなかったという時代、どうしてここの地を選んだのかもわからない。手前には小川が流れている様子があり、建物の裏側を奥へ進めば100メートルほどで江戸川堤に、手前には『東京府東京市金町村金町尋常小学校』がすでに設置されていたようなので、将来の子供の通学を考えたのかもしれない。私が通った頃は、始業の鐘(ベルではない)が鳴ってから家を出ても、朝礼に間に合った。
 現在の『金町小学校』令和6年に、創立150年になるという。

 家が建てられた時、同時に、神棚も設置されていたようだ。設計・建築したのは祖父で、優秀な宮大工だったという、かなりの収入もあったようだ。祖父手作りの神棚、私が結婚して家を離れたあと、義兄夫婦で二度、家は改築されている、棚は新しくなったが、社は昔のまま、100年は超えている。



 ガンベルトを腰にさしているような写真だ。これもいつのものか分からない。写真館の台紙に貼られている。左端が祖父の山下茂雄。二人は建築家の仲間かもしれない。

 大正12年(1923)
 関東大震災の年に生まれた長男の節句人形から

 八畳間にある床の間いっぱいに、五月人形が並べられていたのを覚えている。季節になると父親が、一つ一つ丹念に取り出して飾り付けていた。父が年を取ってきたときには、私が代わりに飾り付けしていた。私が結婚するので家を出る時、午年の私は、左右に白と黒の飾り馬があった中の一つを、もらってきた。今でも5月になると取り出して飾っている。収めている箱の奥に「久月」の文字が見える。

 昭和3年(1928)
 すでに「食べ歩き」が新聞連載されていた。
 当時の「時事新報」という新聞に、食べ歩きが連載され、読者からかなりの人気を集めていたようだ。グルメ探訪というよりは、少しかしこまってお昼を食べに行く、というスタンス。社員数名がチーム、勿論食べるのが大好きな者、少食だが雰囲気が好きな者、新聞の挿絵を担当している者で構成。
 お酒の入る一品ではなく、読者が入ってみたくなるような食堂がメイン。それぞれ好みで注文。どの店でも気になるのは、女給さんの存在だったようで、今でも共通しているようなのがおかしい。

 左は上野・松坂屋の食堂、女給さんのスタイルはどこも同じようだ。背の高い子ども用の椅子があるのが珍しかったようだ。右は浅草のすし屋横丁。
 
 地元の柴又の草団子の店にも行っているので紹介。店では“色が悪い”と店に言うのだが“これは、本当のヨモギを練って入れてあるもので、風味が違う”とたしなめられた様子が書かれている。


 現在の柴又の様子、最も古い店、おそらくここで食したと思われる。

 だんごを食したあと、帝釈天にも参詣している。当時の様子(実家のアルバムより)と現在の様子だ。


 この連載は、翌昭和4年に、一冊の書籍のまとめられている。これの復刻版が出された。「東京名物食べある記」 教育評論社 1.500+税


 昭和11年(1936年)
 実家の縁側。子どもたちが大勢

 長兄を始め男兄弟4人が写っている。他に、見覚えのある男女の従兄弟の顔もある。後ろには、湯島に住んでいた叔母が見える。多分、5人目にして初めての女の子が産まれ、両親、祖父母、親類、近所の人も大喜びだったというから、生まれてすぐの長女を見に来たのではないかと思われる。
 それにしても、縁側と庭との高さが1メートル位はある。濡れ縁(ぬれえん)を置く代わりに、庭から家に入りやすいように、靴脱ぎ石が作られていたようだ。この石、ハリボテではなくムクだった。後述するが、昭和22年(1947)に起きた
「キャサリン台風」で利根川が決壊し、この縁側の更に20センチほど上まで洪水で浸水した。


 長女のために揃えられた雛人形。写真の下の部分のガラスケースに入っているのが当時のもの。父が一時期、京都支社に勤務していたことが有り、和雄兄と妹の絢子を連れて赴任していた。その当時に、京都で購入したというもの、父の3ヶ月分の給料を要したそうだ。

昭和10年(1935)前後
雛人形 レコード、蓄音機
 上記の雛人形一式は昭和11年に生まれた長女のためのもの。また、彼女に聞かせようと童謡のレコードが数多く揃えられていた。所謂、戦後の文部省唱歌でも、ラジオ歌謡でもなく、蓄音機で聞くために制作されたもののようだ。78回転のSP盤、片面3分ほどの曲で、両面録音されている。ために、どの曲も歌詞が簡単でわかりやすく、曲も覚えやすい、すべて女子の子供の声、姉はすべての曲を、ソラで歌える、私も半分は歌える。
 アルバムの中には、歌にまつわる「お話」が絵本で紹介されている。20数枚、40曲あまりがあるが、私がネット検索した結果では、音源がないものが多く、また数曲は
「国立国会図書館記録的音源」と指定されているものがある。
   




 蓄音機の蓋の裏に viva tonal COLOMBIA ccafo nola

 こちらは、主として、男兄弟4人のために、勿論父親も一緒に聞いたであろう、軍歌やクラシックのレコードだ。特に軍歌に熱心だったのが三兄の昭雄だったと思われる。所謂「軍国少年」だった彼は、両親に内緒で予科練の入学案内を頼もうとしていて、見つかり、普段は温厚な父親から猛烈に怒られた、という。彼は長じても軍歌が好きで、飲んで機嫌良くなると小声で歌っていた。私を近くに呼んで、歌って聞かせるように歌っていた。レコードの軍歌は、ほとんど歌えるようになった、軍国老人が私である。
 軍歌といえば、現海上自衛隊では、正式な行事では「軍艦マーチ」が演奏されるという。ならば、航空自衛隊、陸上自衛隊にも、隊歌があってもいいのではないか。さしずめ。航空には「加藤隼戦闘隊」、陸上には「愛馬進軍歌」などが、よろしい。
 


   
第六子誕生 大東亜戦争最中 昭南島(シンガポール)陥落の日

昭和17年(1942)

私が生まれたこの年は、いろいろなことがあった年だ

 これは父が書いたこの年の日記帳、ハードカバー製。実家の本棚にあったものを持ってきたものだが、日記帳があったのはこの年のものだけ。なぜ、日記を書くことにしたのか、まさかほどなく生まれてくる六番目の子どもの記録のためだとも思われないのは、当日前後のこと読めば分かる。
 大東亜戦争は佳境になっており、当時、日本水産株式会社会社の経理・財務の仕事に就いていた事業も忙しかったか、子どもたちの受験も重なっていて、記録の気分が高揚していたのかもしれない。
 表紙に乗っている
『翼賛選挙』のビラは、日記の扉を開けたところに折りたたんであったもの。上の部分が5ミリほど色が変わっている、門扉に糊で貼り付けていたのかもしれない。


 表紙をめくると、皇室の記述、今上天皇始め、各宮家が並んで列挙されている。また
その年の行事などが詳しく載っている。下は大日本帝國周辺の地図、中央付近には『満州帝國』の文字、右上には『ソウエト聯邦』、など、かなり細かく地名が記されている。

 父はかなりの達筆、所謂「付けペン」でインク壺からペン先にインクを着けて書いていたようだ。漢字が正字であり、送り仮名はすべてカタカナなのでかなり読みづらい。私も、ずっと持っているだけのものだったが、数年前、初めて、正月から1日ずつ読んでみた。
 気がついたことは、毎日がマメに記されているが、食事に関すること、食べ物についての記述が殆ない、食べ物に不自由していたものだろう、祖父母含め10人の食事はどんなものだったか。ただ、水産会社に居たおかげで、魚には不自由はなかったようだ。手土産に持参した鮭の切身などを、京橋で医者をしていた叔父から清酒に換えてもらったりしていた様子がある。当時、酒は配給だったか。晩酌はかなわなかったようで、代わりに「銀座ユニオン」なるカフェで、浅酌を度々していた。

 正月は穏やか。右の2月18日。かいつまんで報告すると、先の15日に、軍がシンガポールを陥落させており、折からこの日「戦捷(せんしょう)第一次祝賀国民大会」が開催され、あやかって、数人と、浅草のカフェーに繰り出し、シャンパン数本を打ち抜き、結果、終電を乗り過ごし、乗換駅で愛用の赤カバンを紛失、という経緯が、重厚な筆致で報告されている。翌日には、第六子が生まれるというのに。
 因みに、このときのシンガポールは、昭和の年に得た島、という意味で「昭南島」と表記されていた。
 
 頭痛、駅へカバン紛失届けるも、なし。それでもあちこち、寄ったり。帰宅、第五男誕生、双方とも元気、とか。

 筆まめな父は、巻末に「金銭出納録」を付けている。元日に、子供へ、と、長男に5-、次男に3-、三男に2-、四男に1.5-、長女に1-、合計で8.00の出費とある。価値観がわからないが、毎日のように通っていた「銀座ユニオン」が1-1とあるので、所謂「センベロ」勘定のようなので、子どもたちの単位は長男は五千円といったところか。気になる2月18日は、記述なし。
 
 左は「祝 陸軍記念日 大東亜民族交歓大会」への招待券。会場は後楽園球場。歌謡大会もあったようで、錚々たるメンバー。三浦環、藤原義江、東海林太郎、長門美保、奥田良三。下は、この年、長男が入学した慶應義塾予科會の新入生歓迎会のチラシ。右はシンガポール陥落記念の記念切手。

 これは、虫か、否、私の「へその緒」である。昔は、生まれた子どもの、へその緒をガーゼにくるんで保存しておき、成人になったときに、本人に渡した、という。我が家も、伝統に則って、私に渡してくれたものを、後生大事に保存していた、というわけ。

 役所に届け出た、戸籍謄本だ。義務教育が終わって、どちらにせよ、身分証明として戸籍謄本が必要になったことは、誰にでも経験のあるもの。これを初めて見て、自分の出自を知ることになる。ふつーに、眺めて終わることも有り、いろいろな「曇」を見つけて、何がしかの、人生の転換を感じることになる人もある。
 実は私も小さな曇を見つけたことになる。母の「三好意喜」は、小野姓の七女で、山下茂雄と妻のよし子の幼女になって、謄本に記載されたことが表記されている。従って、私の長兄は山下姓を継ぐようになった。従って、私は6人兄弟の五男として生まれたが、四男として表記されている。私は今まで、全ての身上書などで、続柄に「五男」と書いてきたが、この謄本で初めて「四男」であることを知った。

 改めて兄弟を紹介。左端は長男(第二子)の寛、三男の和雄、長女の絢子、父の新三郎と私、次男の昭雄。第一子の山下信一はこの写真にはない、三好以外を外したわけではなさそうだ。右の写真は寛に抱かれた私、功という名はこの兄が付けたという。

 
余分な話 そう、兄姉6人、上4人が男、あまり間を開けずに生まれている。そして5人目、両親はどう考えていたか、5人目も男か、女の子が生まれるか、懸けたか。そう、長女に恵まれた、家族はもちろん、親戚筋、近所の人も大喜びしてくれたという。そして、幾星霜、それから6年経って、はからずも、私は生まれた。時々、笑い話になるが、5人目が男だったら、100%、私は生まれなかっただろう、姉に感謝しなければならないのだ。

閑話休題
二つの書見台
 書見台、所謂、見台は、和楽の演奏の際に譜面を乗せるもの。


 50✕32 厚さ12ミリ程度の天板、4本の柱は六角推、かなり頑丈な作りだ。釘は使っていない、全て嵌め込んである、どんな接着剤を使っていたか。姉がこんな事を言っていた“膠(ニカワ)を使っていたんだよ、私はよく酒屋にニカワを買いに行かされていた”と。当時の酒屋は雑貨屋も兼ねていた、コンビニエンスの形態がこの頃からあったのだろう。
 下は引き出しになっている、取っ手は、柘榴(ざくろ)の形、反対側は茄子(ナス)だ。上に乗っているのは、父が通っていた「」喜多流の謡曲の入門書か。喜(七の字3つ)田六平太の文字、大正十年。私が子供の頃、この見台に乗って歌を歌っていたという、覚え有り、私にとってはステージだった。世田谷時代は、電話置き、下にティッシュ、中に電話帳だった。今は、中折れ帽とボルサリーノ形の帽子置き、下は普段あまり使わず、本棚のスペースを取っている広辞苑と聖書の置き場。
 
 
 こちらは組み立て式。上記の父が(謡って)いた時代のものらしいから、こちらのほうが遥かに古い。双方とも祖父・茂雄が作ったもの。

昭和22年(1947) キャサリン台風
湯島天神下に疎開
 利根川上流の堤防が決壊して、広域に洪水。我が家では1階の畳全てを、箪笥の上に乗せたりして対応したようだ。2階の6畳間と西側廊下、南側廊下、それに2畳ほどはあるベランダに、両親、祖父母、6人兄弟、それに近所の男性2人が同居の避難になった。
 5歳の私は、水が引くまでと、湯島天神下の家に疎開することになって、長兄に連れられて叔父、叔母が住む家に。家は当時でも珍しい3階建てだ。

東京新発見2 歩いて見つける江戸文化 株式会社みずうみ書房 1.400
 書籍の冒頭の挿絵で紹介されている、天神下の三好家、2軒並んだ右側の家だ。

 三好家の父方の祖父が三好金三郎、8人の子持ち、長男の喜多郎さんの妻が、小雪おばさん。当時は1階に住み、駄菓子店を営んでいた。湯島天神下から都電で一つ、上野広小路のすぐ近くが御徒町の菓子問屋街。『ニキニキニキニキ二木の菓子』が昭和の爆笑王・林家三平によってテレビで放送されたこともある(今は二木ゴルフか)。ここで仕入れて仕事していた。
 2階は四男の勇之助叔父と妻の、清子(せいこ)おばさん夫婦が住んでいた。私は、初めからどちらでご飯を食べたいか聞かれていた。一方だけではいけない、と、子ども心に忖度していたようだ。

下町残照 朝日出版社 1.500
 書籍で紹介されている3階建ての家と、小雪おばさんが仕事していた当時の記事が書かれている。“父と先代ともに指物師の仕事をしていました。金三郎は日本画の横山大観の指物師をしていました。この家の上に看板が掛かっていますよ”。

 この家の奥に「水洗便所」があった。実家の便所は大きかった、南側の廊下から入る小便器、玄関と2階への階段下に小便器、真ん中に大便器があった。中に入ると、両側の扉のカンヌキわ閉めるのだが、私はしゃがむと手が届かなかった。このカンヌキを終わってから開けるのを忘れて、よく母親に怒られていた兄が居た、誰か、は言わない。便壺も下が見えないくらいに大きかった。
 初めて入った時、白い便器にまたがったが、出せないのだ、一度廊下に出たが、我慢できずに再度。出たうんこを初めてみた、色も、臭いも初めてだ、なぜか、恥ずかしかった思い出がある。教えられたとうり、細いクサリを引いたら、後ろから水が吹き出し、うんこを押し流した、そのまま飛び上がりそうになった。当時、下水道が作られていたとは驚きだった

 余分な話 
この家から、右へ数軒進むと湯島天神への「女坂」への入口、更に数軒、湯島の切通しを登っていく都電の通りに出る角に「居酒屋シンスケ」があった。父が弟の家に寄った帰りに時々利用していたようで、出納帳にも記述がある、3-とあるから、銀座ユニオンよりいささかハイクラスだったか。
 都電の次の駅の近くに、後述する、私の勤務した会社があって、社員が一人で入るような店ではなく、少々敷居が高く、上司に連れて行ってもらったことが数回。それにしても、80年も前の店に、30年も後の店と、親子で通っていたのも、湯島らしい、といえば言える。 
 
閑話休題
 小学生
 生まれ年の写真以外に、子供の頃の写真が全く無い。父の日記にもあったように、空襲警報が鳴るのが日常となってきて、戦時が激しくなっていく。空襲があったりして、写真どころの騒ぎでなくなってきたのは、容易に知れる。まだ幼児の頃だろう、寝ていた所を起こされて、母と一緒に、椎木の横、垣根の近くに掘られた防空壕に連れて行かれたのを、微かに覚えている。
 おそらく、小学校に入った頃、だと思われる絵がこれだ。

 長兄・信一が描いた私の肖像画だ。襟付きの服を着ている。慶應大学を卒業、戦時で左腕肘から下を爆弾で失っていた頃だろう。大学幼稚舎の制服に憧れていたようで、所謂「慶應型」の服を私に着せて、わざわざ伊勢丹の写真部まで連れて行って撮ってもらっている。証明書に貼るくらいのものだが、実際に見たことはある、3枚綴りの写真だったが、実家にも見つけられなかった。姉は“よくにている”と言っていた。
 撮影に行った日、兄が“カメラマンに、坊や、お父さんの方を向いて”と言われた、参ったな、と言っていたとか、19最離れていれば、そんな事もあったのだろう。

 記事が前後するが、1枚だけ写真が見つかった。卒業写真、男子で髪を伸ばしている、所謂「坊っちゃん刈り」は、私ともう一人。

  
小学生の頃の生活は、夏休みにあり  ベーゴマ ビー玉 メンコ 缶けり
   釣りは畑で ザリガニ カエル  川ではハゼ セイゴ


 この頃、幼稚園などは無かった。兄弟たちから、字を教えてもらったこともなかったのだろう。学校へ行って、初めて、イロハ、アイウエオを習うことになった。父が、白い紙を何枚か束ね、目打ちで穴を開け、紙のコヨリで纏めてくれた。先生がこれを見て“お家で、四角い線を書いてもらっていらっしゃい”と言った。姉が学校へ上がってから6年、学校へ上がるためのいろいろを、両親は忘れてしまっていたのかもしれない。

昭和25年(1950)以前
ラジオ放送の啓蒙絵葉書
 ラジオ放送がNHK・日本放送協会として、新たに始まったのが昭和25年のことだったというから、はるか以前、ラジオが始まった頃に発行されたものと思われる。表紙の家族のイラスト、母親の髪は「丸髷」だ。


 東京中央放送局 聴取感度略図 所謂、関東甲信越と佐渡を含む聴取可能地区を示した地図。機械室写真、郵便はがきの裏面だ。何より楽しいのは、「ラジオ標語」なる16箇条。読みにくいかもしれないが、一端は分かると思う。私はこれを作ったコピーライターに敬意を表したい。
 去る、令和6年(2024)7月の都知事選挙で“エヌエイチケーをぶっ壊す”と気勢を上げたN党の諸君に読んで聞かせたら何と言うだろう。ラジオで育っていれば、少しはマシな大人になっていただろうに。

昭和28年(1953)
初めて医者に掛かる
 小学校6年生の初冬の頃だと思う。少し熱が出て、身体に赤い発疹が出た。近くの内科医院に連れて行かれた。仲本医院、兄たちは「アサシオ先生」と呼んでいた。大柄で眉毛の太い人だった。(
朝潮太郎=後に横綱になった力士、眉毛の太い、胸毛が濃いのは、新聞の写真で見たことがあった)。診察の結果は『猩紅熱だという。全身に発疹が広がる感染症とのこと、皮膚感染する。従って、学校は休み、家でも、6畳の間に布団を敷いて、ほとんど寝るだけの生活。
 痛むこともない代わりに、退屈で仕方がない。兄たちが本を買ってきてくれた。『宝島』『巌窟王』『三銃士』など。絵入りの本。すぐに読み終わってしまうので、本を3~4回に区切って、読みたくても翌日に回すなどしていた。

 学校を休んでいるうちに、祖父が老衰で死んだ。門に「忌中」の札が下げられて、登校する友達たちが見て“三好くんが死んだみたい”と職員室に報告したので、学校で大騒ぎになったらしい。約一ヶ月、全身の発疹が白く乾燥してきて、医者からもういいと。ようやく風呂に入って、全快。

『胃カタル』発症。祖父の葬儀でいろいろな供物を頂いていた。殆どが菓子だ、それも和菓子。普段あまり食べていない物も多く、次々と食べたのだろう、突然食欲がなくなり、ご飯が食べられなくなった。再びアサシオ先生。今度は胃カタルという胃炎だという。薬を貰って数日でよくなった。普通こんな症状を起こすと、同じものに手が出なくなるものだが、私は以後もずっと、甘いもの好き、特に餡ものに目がなくなって、今でも続いている。一番好きなものは
『きんつば』である。

 小学校時代の資料らしいものは何もない。ただ、4年生の時の夏休みの時の絵日記が残っているので、暮らしの一部がわかると思い紹介する。
 当サイト 『ジャックの部屋 アルバム 絵日記 昔 むかし』をご覧いただきたい。

 
中学 菜の花の江戸川河川敷から 柴又・帝釈天へ 遊びの範囲が広がった

昭和29年(1954)

中学校へ しかし、校舎が無い
 中学に上がるに際して、金町小学校の生徒のうちの、ある地域の生徒と、同じように柴又小学校の一部生徒が、合同で新しい、葛飾区の18番目の中学に入学することになった。ただし、この年の4月にはまだ校舎が完成していなかった、今では考えられないが。
 ために、およそ2ヶ月位は、今まで居た小学校の部屋に間借り、午後から夕方までの授業をしていた。まだ教科書もない状態で、6年製の復習のような授業だった。もちろん、英語の授業なんてまだなかった。
 
 新しい校舎に移る頃に学校名が決まった。「葛飾区立 常磐(ときわ)中学校」 3年生は居なくて、4クラス。校舎は新しかったが、校庭は未整理状態,ガスガラというコークスという燃料の燃え残りを敷いて、で、ところどころに土が撒かれていた。とにかく、校庭で転ばないように気をつけた。
 私はB組、英語の教師が担任となった。どうも柴又組のほうが数が多く、柴又中学のような感じだった。当時は、背丈順に前から並べられた、金町組では私が一番うしろ、隣に柴又組の大きな男が並んだ。誰かが、あいつは、バンチョウ、喧嘩が強い、と言っていたが、案外馬が合って、すぐ仲良くなった。
 遊び場も広がった、今までは金町浄水場の取水塔の辺りの河川敷から、常磐線の線路を越えた葛西神社辺りまでが遊び場だったが、河川敷も矢切の渡し辺りまで広がった。柴又帝釈天にもよく出かけるようになった。

 隣の男は自分で「ソノダ シデオ」と言った、名簿には「園田 英雄」とあった。初めて彼の家に行った。門前の仏具店だった。父親は園田正信、彫刻師、帝釈天の本堂の周囲には多くの彫り物が飾られているが、多くは彼が彫っていたものだそうだ。母親はコトさん、東京の数少ない郷土玩具である
『はじき猿』を自ら作っていた、彼女だけの特許だ。
 
●令和6年(2024)7月の仏具店、シデオ君は元気、はじき猿を片手に。

 正信さんも、コトさんも、彼のことを、シデオと呼んでいた。彼はその後、江戸川伝いの我が家まで遊びに来るようになった。玄関に迎えに行った姉が“シデオが来たよ”と私を呼びに来た。
  
 2年生の時の遠足(まだそんな呼び名だった)は筑波山。ずいぶんレトロな目的地だ。おそらくバスで麓まで行って登山したのだと思う。土産にガマの置物を買ったのだが、真意は分からない、筑波山といえば「ガマの油売り」として知られ、後年、デュークエイシスの「筑波山麓合唱団」でも有名にはなったが。父親は気に入ってくれたのかもしれない、お腹に揮毫してくれた。今は、私の部屋のテレビの前に座っている。

 3年生のときに劇に誘われた。私にその気があった訳では無いが、国語教師の益子俊江さんが始めたもの。演劇部なんていうものもなかったが、
吉野源三郎 作「君たちはどう生きるかから「コペル君の1日」。今考えると、ずいぶんと考えの進んだ戯曲を選んだものだと思う。昨今、話題の書籍になり、アニメーションにもなるとは、もちろん想像もしていない。上の2枚はその劇中。その後、インディアンを主人公の英語劇にも参加させられた。演劇との出会いは益子先生のお陰かも知れない。
 
 学校生活は楽しかった。成績は上がらなかった、不思議なもので、自分の成績が下がっていくのが分かるのは、他人の成績が上がっていくのを自覚して初めて気がつくということだった。けっこう惨憺たるものだ、小学校の時だったら母親にこっぴどく怒られるところだが、母も年取ってきたか、特に話はなかった。それでも、高校受験にもっていけたのには、担当教師が内申書くのに苦労したであろうことは、分かる。説明するまでもないが、5が最高点だ、が、見渡しても、5は無い。

 卒業写真、クラスのものは、男女とも、けっこうそれらしいナリをしてはいる。よく見たら、前列の男たちの足元が、バンカラなのだ。そんなローカルな時代。

 
余分な話 子供の頃、婆さまが“今日は タイシャクテンの こうしんのひだから あたいは、しばまた にいってくる”と出かけたことがあった。こうしん、というので、大勢の人が行進する賑やかな日、なのだ、と思っていた。シデオくんの家に行って、帝釈天の門前に『今年の庚申の日』という看板を見た。分からないことだったので、正信さんに聞いた覚えがある。これは『カノエサル』と読んで、猿に演技の良い、歳時記の日をお祭りにしているというのを教えてもらった。
 お店は、いつもより品を多くし、門前には、香具師が出張っていた。件の、ガマの油売りもいた、門前柱にもたれて、白衣の傷痍軍人もいた。

時代はエルヴィス・プレスリーからポール・アンカ ニール・セダカ 60年代ポップスへ
何故か学校で禁止されていたジヤズ喫茶 銀座ACB(アシベ)に行っのは女生徒


昭和33年(1958)

都立小松川高等学校入学
昭和の黄金期間、と言われる年代に入った。しかし、高校の記録・写真が1枚もない。卒業アルバムが見当たらないので、全てが不明。つまらない記録や写真が保存されていた我が家にとっては、考えられないこと。
 なので、思い出話で。

 
かかあ天下の学校 高校は元は「第七高等女学校」であって、昭和49年(1974)に共学となっていた。入学時、学年生徒数は約450人、内、女子が300、男子が150弱。9クラスあり、共学クラスが6 女子のみが3クラスだった。1クラスでは女子30、男子15弱という編成。年度ごとにクラス編成が変わったが、3年間男子と席を同じにすること無かった、という生徒がかなり居た。(後年、親しい友人で個別のクラス会を行った時の担任教師の話だが、女子の内申書はオール5か、或いは4があっても、特別教科の体育、音楽、美術に限られていたという。男子は、来るもの拒まず、だったと)。

 だから、学期の中間試験、期末試験は成績50位までが教員室前の廊下に張り出されるのだが、全てが女性、たまーに、男子が入ることがあったが、みんなに冷やかされる、といった塩梅。3年間トップだった女子がいた。
 知の女傑だけではなかった。卒業して数年後、M・Iのイニシャルの卒業生が「ミス東京」になったというニュースを新聞で見た、同学年、驚いた、というより、彼女ならやりそうだというのが友人たちの感想。残念ながら親しい友人からは、楽しい話はなかったが。最近になってネットで色々調べたが、該当するものは無かった。ただし、当時のNHKテレビの「とんち教室」に何回か出演しているのを見かけているので、冠は本当のようだ。

演劇部に入る 驚いたことに、私達が入部するまで男子部員は一人もいなかったという。同時に入部した男は3人。まあ、大事にされた。そのうちの一人が、土橋 亨(どばしとおる)私と同じ早稲田の演劇科から東映京都に就職。深作欣二の助監督を務め、真田広之と伊藤かずえの映画初出演の『勇者たち』、村上弘行と十朱幸代で『極道の妻たち パート2』を撮った。学生時代から現在まで家族とも交流している。
 ところで、最近、小松川高校をネット検索してみた。まあいろいろ情報、が。卒業有名人に土橋の名が無い、これは同窓会の怠慢である。

小松川高校事件 在校生の女子生徒が行方不明に、後日、校舎屋上で死体が発見されるといった事件。ネットではかなり詳しく見られるので、詳細はそちらへ。2年生の夏に起こった事件。夏休み中だったため、運動部が活動をしていたので、まっ先に調べられた。全校の男子生徒の家に刑事が来たという。我が家にも二度、「犯人」が新聞社に送った手紙に珍しい切手が貼られていたので、同級生と切手の交換などしていた友人と私に、切手を調べに来たのだ。
 新聞などには書かれていなかったが、録音電話の記録が残っていて、2学期が始まった日に、講堂に集められた全校生徒にこの音声を聞かせて、特定の人間に絞られたという。

歌えない校歌 数年前、テレビの「題名のない音楽会」という番組で「珍しい校歌集」というテーマの回があった。小松川の校歌が紹介されたが、テーマは「歌えない校歌」。紹介したのは卒業生で尺八奏者の「藤原道山」氏。メロディーで歌うものはもちろんあるのだが、校歌には珍しい、混声四部合唱なので、完全な形では歌われない、というものだった。

 
余分な話 校舎の屋上からは、建設中の東京タワーの鉄骨が組み上がっていくのがよく見えた。当時の屋上はロマンススポットで、入れ替わり男女生徒が、二人でタワー見ながらひそひそ話。それかあらぬか、後日の同期会のたびに、卒業生同士のゴールの話を頻繁に聞くようになった。思うに、生徒の多くは実家が商店経営、という家庭が多く、町内会ぐるみの付き合いも多い生徒が多かったせいだろうと思う。実際、私達も2年生時代のグループが出来ていて、男子5名、女子4名がよく集まった、卒業後も続いていて、そのうち2組がグループ内結婚、男子一人とグループ外女子が結婚していて、二組半のゴール結果となっている。私は蚊帳の外。

 左の楽譜は「歌えない校歌」の楽譜。森山 健一郎 作詞  石桁 真礼生 作曲 この楽譜は斉唱部のみ。右の楽譜は、高等女学校時代のもの。佐佐木信綱 作詞 信時 潔(のぶとき きよし)作曲。信時 潔は、「慶應義塾大学塾歌」「海ゆかば」「海道東征」などの作曲家。

 立派な記念誌が出来て、送ってもらっている。私はいろいろな記念誌を作ってきているが、私が関わったものではない。同窓会も出席が悪いし、こうした事業が行われていることも知らなかった。思うに、昔のことになるが、早稲田の同期が、ある居酒屋で、小松川の広報を担当しているという教師と飲み友達に。学校で、地元中学生向けに、広報用のビデオの制作者を探している、ということで私に話が回ってきた。面談、私と、同期の土橋監督で制作することに。学校が保存している行事のビデオに、改めて取材するものを編集することに。数回の学校取材したものを、土橋氏に送り作業してもらうことに。
 2か月ほどかけて完成。予定の中学に配布、噂では、次年度の入試志願者が過去最高になったとか。この年を堺に、学校偏差値上がった、という話は、特に聞いていない。

 もう一つ、これは数年前、新しい入学者に「正式な校歌」を聞かせたい、ということで、昔、学園祭で、オペラ「真間の手児奈」を上演したが、その時の演劇部と音楽部の卒業生でコーラスグループを作って活動していたメンバーで、CDを制作した。
 そんなことで、誰かが、手配してくれたもののようなのだ。
  
 資料としての写真は無かったが、こんなものが出てきた。成績は自慢できるようなものではなかったと思うが、金はきちんと払っていたようだ。卒業に感謝だ。

     
デモ 結核 芝居 アルバイト 在学4年半 優の数7個

昭和35年(1960)

3669 早稲田大学 入試の受験番号
 まだ覚えているのだ。願書を出しに行った時、我が家は名字に三の字がついているので、何かと、この数字に寄り掛かることがあったのだが。この番号を渡された時、なんの根拠もなく“これは、なんとかなるのかもしれない”という思いが湧き上がった。なので、合格発表の掲示にこの番号を見つけた時“やった”とか“嬉しい”ということより、何だあるじゃないか、のような気持ちだったと思う。

 この年になって、爾来、私はけっこう、せっかちで、おっちょこちょいなところがあるのを、今も実感することがあるのだが、この時も発生していたのだと思う。発表見て、事務所に行って、確認すれば、入学金の払い方、入学後のガイダンスの案内、もちろん入学式の予定などを知らせてくれたはずなのだが。私はとにかく、学校に報告に行こうとして、肝心なことをすっかりパスしてしまっていた。このときは、同学年で法学部に合格した生徒が2人いて、後で入学式のことを、聞いていたのだと思う。

 結局、入学式に昼から出かけたのだが、大隈講堂の入学式は全て終わっていて、各クラスの写真撮影も終わっていた。従って、入学式の写真は、無い。
 学内は殺伐としていた。大隈公の銅像は、タテ看で囲まれていた。各学部の校舎の入口にもタテ看。頭に血の滲んだガーゼを巻いた学生があちこちに居た。デモに行った連中。都電の早稲田車庫が近く、車両を借り切って学生を乗せ、日比谷あたりまでデモに参加する為の送り迎えをしていた。

結核感染 どのクラスでも、授業のガイダンスが決まって、クラス委員が決まって、最初のコンパが開かれていた。4月の末になっていただろう。学内の診療所から呼び出しがあった。新入生に行われた健康診断で、精密検査が必要なので、改めて指定の診療所で精密検査をするように言われた。何が悪かったのかは、よくわからない状態。

 車庫前から都電で次の停留所『面影橋』(おもかげばし、後にフォークソングブームになったときにモデルとなった駅だ)の近くにあった『早稲田診療所』(学内施設ではない)。所長は田辺正忠医師、細面で黒縁メガネ。内科医とレントゲン医師を兼ねる男性と、看護婦(当時の呼称)3名のこじんまりした施設だ。すぐにレントゲン撮影、胸に当てる機械は今のものと同じだが、学内の検査で見たフィルムは、写真撮影で使用するのと同じ6✕6インチのちいさいもの。このサイズで病巣の白い影が写っていたということは、かなり進行していたのだと思う。
 1週間ほどして検査結果を聞きに診療所へ。肺の大きさのレントゲン写真見せられた。左上、自分からすると右の肺の上部に白い影、というか穴か、が私にもはっきりと見える。
田辺先生からは“肺結核がかなり進行している。すぐにでも治療するほうがいい。サナトリウムに入院しましょう”と言われる。

 家に帰って父母に相談。田辺医師に相談。結果、当時家は父母と私の三人暮らし、私は受験勉強の頃から二階を自分の部屋に、独立した部屋なので、病室として使用、治療に診療所に通う、ということで、療養を始めることに。治療の方法は
ストレプトマイシンの皮下注射、パスという飲み薬、同じくヒドラジッドという顆粒飲み薬。この治療が当時の決定的な方法だった。治療は『結核予防法』に該当するので、他の治療以外は無料であるということだった。医師からの療養法『原則、ベッド(布団)生活、外出は不可、家もできる限り歩き回らない、午後の1時から3時までは絶対安静でラジオも本、読むことも不可』というものだった。

 「病は気から」というが、私の右胸には、大きな病巣がある、というのが実感されて、まさしく気持ちも、いきなり、病人になった。治療が始まるのと、病気が進行するのが同時になっていたようで、週に一度治療に出かけるのが、すごく辛くなった。体力がどんどん低下するのが分かる。
 実は昭和25年6月1日、寛兄が結核で、この二階で死んでいる。こんなふうに体にダメージが来たのか、と思い至って、弱気になった。ストレプトマイシン(通称ストマイ)の効果は体に現れる。注射の後は、耳鳴りがする。マブタが痙攣する、気になるので電車を途中で降りて、トイレに入り、鏡を見るのだがマブタに異常はない、が痙攣は続いている、といった状態。
 このストマイだが、耳に障害をもたらすこともあって、小児結核にかかった児童がこのために聴力を失う、所謂『ストマイツンボ』(これは禁止用語、念の為)が現れる事もあった。

血沈検査 太宰治
 1日が長い。ラジオは茶の間に1台あるだけだが、母が“私達はいいから”と運んでくれた。午前中だけ聞いて、昼からは茶の間に戻してもらった。
 楽しみはなかったが、毎週診療所で結果を聞かされる
「血沈検査」を聞くのが楽しみになっていた。この検査は、前週に採血したものを試薬にいれ、沈下の高低で体の疲労程度を測るというもの。二ヶ月ほどは興味を持たなかったが、少しずつ、沈下が現れてきて、まずはその結果を聞くのを楽しみに待つようになった。身体の状態が、見ているもので分かる、という経験はこのときしか無い。
 午後の安静は続けたが、和雄兄が「太宰治全集 筑摩書房版」を持ってきてくれて、本を読むことに没頭することに。太宰治のことは当サイト「書籍 小説 太宰治関連本 夫人と師と編集者」に詳しく書いてあるので、ついでに一読を。

余分な話 寝ながら本を読むということを長く続けたせいか、後日になって、右の目が急激に悪くなり、出版社に入って初めて目の検査を行い、急な近視状態になっていることが分かった。すぐに初めてのメガネを掛けることになったが、右目のレンズが殊更に厚いものになっていた。

早慶6連戦
    
 夏の暑い間も出かけられずに居た。血沈の検査もだいぶ良くなってきて、時々行う「痰の検査」でもマイナスが続いてきて、体力も回復してきた自覚が現れてきた。大学へは診療所のついでに必修科目に出るようになっていた。
 そんな秋に行われたのが伝説の早慶6連戦だった。我が家にテレビはなかったが、隣家に頼んで見せてもらていた。5戦目が引き分けになって、いたたまれず神宮に出かけた。学生席は疲れそうで一般内野席へ。
   
 当時の応援席は、早稲田側には「フクちゃん」、慶應側は「ミッキーマウス」の絵看板が掲げられるのが伝統になっていた。フクちゃんは、横山隆一漫画に登場するフクちゃんが角帽を被っていたのでモデルにした。慶應は、早稲田のシンボル・稲を食べるのがネズミ、ということでディズニーにあやかったという。都の西北を声に出して歌ったのは、このときが初めてだ。
 上記の写真は『神宮の森の伝説 六〇年秋早慶六連戦』長尾 三郎 著  文藝春秋 1.500 からのもの。長尾は演劇科の2年先輩だ。表紙のピッチャーは、早稲田は安藤元博、慶應は清沢忠彦。
 『この試合が、私に、勇気と希望と夢を与えてくれた』なんていう、マスコミ風にはならなかったが、これをきっかけに外出を少しずつやれるようになった。

 2年生になって、薬剤とも離れることが出来て、ふつーの学生生活に戻った。といっても、学業も仲間作りも、だいぶ遅れていた。医師からは、芝居やるような、大声だしたり、動いたりする活動はだめだよ、と言われていたが、もし再発したらそれまで、とにかく遅れた分なんでもやってみようと、思っていた。

国定忠治上演
 当時学内には幾つも演劇研究会なるものが出来ていて、部活動の芝居をやる学生も多かった。クラスでは、自前の芝居をやりたい、という声が出てきて、この年の早稲田祭でなにかやろう、と動き出した。そんなときにクラスの細川 智が描き下ろした芝居の台本『極め付 国定忠治』。本来、学内でやるような芝居ではない。しかし、全員乗り気。芝居の下地はあるものなので、稽古はそこそこ。しかし、藤浪小道具で衣装も小道具も仕込むことに。早稲田祭当日は、銅像前で、衣装着けて、デモンストレーション。演壇のある大教室で行った芝居にはけっこうな人が入った。

余分な話 作者の細川は、自分も勿論役者の一人として登場することになっていたが、小道具が到着して「ヅラ合わせ(かつらを合わせる)」をやったが、彼の頭に合うヅラが無かった。坊主の役を作ろう、と言ったが、急には無理、で演出のみに。後年、『劇団 新国劇に入団、辰巳柳太郎に師事した。“ここに来て、初めて俺の頭に合うヅラがあって嬉しかった”と言っていた。

浅草国際劇場 特別出演

 これを見た父が“お前が特別出演したみたいだな”と笑っていた。見ての通りの大入り袋。肩書というものは、名前の文字通り右肩に書くもの、と思うが、字の配分のせいで、賠償さんの左になっていた、というわけだ。この年、元日から5日までは、美空ひばりの正月公演が行われていた。現在のエンターテイナーの公演の極みは、武道館か東京ドームか、となるのかもしれないが、当時は
『浅草国際劇場』が絶対の場所だった。美空ひばりは昭和27年から15年間通して、当時の当代一流の歌手や俳優を共演相手に公演を続けていた。

 クラスに、松竹の重役の息子が居て、国際劇場の場内整理のアルバイトをしないか、と誘われた。数年前、熱烈な若い女性ファンから、ひばりが硫酸をかけられる、という事件があって、公演中に舞台に近づく観客を整理するための人手が必要、という事態のようだった。初めて劇場の裏に足を踏み入れ、朝でも昼でも挨拶は“おはようございます”ということを知った。喜劇役者の「堺駿二」を楽屋で見かけた。現在のタレント「堺正章」の父であり、令和6年の朝ドラ出演の「堺小春」の祖父に当たる人だ。驚いたこと、5日間、昼 夜、全ての公演を続けて観ていた九州から来ている、という女性ファンがいた事。

劇場公演
 劇作家志望という、江連 卓(たかし)が描き下ろした。リチャード三世をモデルにした「杜部源三郎義直」という戯曲だ。忠次の芝居とは違って、学外公演、それも大隈講堂での公演も超えて、地方公演を前提にした公演になる、というのでけっこう高揚した。
 神戸で二回、名古屋で一回の上演だ。スタッフも役者も全てクラスメイト、後輩も数人参加。パンフレットを眺めてみると、表紙の1 2 3以外に大小39本もの広告が集まっている。こんな大掛かりな芝居が、この後の演劇科の公演で行われたことがあったか、は分からない。が現地での道具の製作も含めて、半年がかりの仕事に、授業の単位にもならなかったが楽しんでやった。
 

 両教授からの寄稿。けっこう辛辣な内容もあった。

モーツアルトのオペラ 「イドメネオ」オペラの上演
 私が療養を始める前、クラスの初めてのコンパが開かれた。何人かが歌を歌ったが、突然オペラのアリアを歌った者がいた。なんの曲かは覚えていないが、高い音で熱唱、しばらく全員で聞き入った。橘 市郎だった。江連 卓が入学から学外公演を目指していように、橘は学生のうちにオペラの上演を目指していたようなのだ。4年になったときに何人かのスタッフが集められ、上演の具体策が話された。この時、彼は既に、モーツアルトのオペラ「イドメネオ」の具体的な上演のための準備を進めていた。
 翻訳を早稲田先輩、教育学部の
黒田恭一氏に依頼していた。そして基本は、スタッフは全て後輩を含めたクラスの者で、、キャストは全てプロの歌手、音楽家を起用するというものだった。
    
 
 この頃、江連の芝居を経験しているものは、将来的に自分のスタッフ経験を活かす道を目指していた。自然とスタッフの候補が出来上がっていた。スタッフの内、決まらなかったのが衣装担当。細川の国定忠次、江連の杜部源三郎を経験していたが、流石にトロイ戦争時代の衣装を作れる学生は居ない。そんな役が私に回ってきた。生まれて初めて、勿論、早稲田の図書館など足を踏み入れたことのなかったのだが、当時の資料を眺めることになった。協力してくれたのは、演出顧問をお願いしたフランス文学の
安堂信也教授。早稲田の学生では無理だから、と服装学院の生徒を当たってみたら。と教えられた。
 心当たりがあった訳では無いが、目黒に「ドレスメーカー女学院」(通称ドレメ と言っていた)があるのを教えられ、なぜか、夜分に、学生寮を訪ねた。寮の責任者は話を聞いてくれ、、後日衣装の制作も含めて、協力してくれる生徒が4人集まった。

 手書きのガリ版刷りの台本が出来上がった。二枚目の表紙には、W・A・モーツアルト 黒田恭一 訳詞  舞台演出研究会 昭和三十九年一月十四・十五日  於・文京公会堂 本邦初演 イドメネオ(全三幕)

 少し話が飛ぶが、インターネットで「オペラ イドメネオ 日本初演」と引くと、作曲家別に多くのオペラ作品が引用できる。勿論、モーツアルトの項目もあるのだが。舞台演出研究会と共に、簡単な説明がある。ところが、音楽実績として認めていない、要するに、舞台・演劇としての公演としか認めていないのだ。

 台本のキャストを見てもらえれば分かる。
 イドメネオ・島田 恒輔  イダマンテ・大槻 秀元  エレクトラ・毛利 純子  イリア・加瀬 恭子  以上何れも、二期会所属歌手。スタッフの内、指揮は星出 豊など、音楽のスタッフが列挙されている。

 苦労話は多いが、スタッフ全員が困ったのは、場面転換の「きっかけ」がわからないことだった。このオペラは「フィガロの結婚」や「魔笛」といったオペラ・ブッファと違って「セリア」セリフの場面も全てメロディーになっていること。普通は台本のセリフを追って場面転換するのだが、曲を分かっていないと、どこでそのシーンが終わるのかが、分からない。とにかく曲を覚えようと、時間のある限り稽古場に行って、その日のシーンをとにかく聞いた。

 後日、本格的な、イドメネオを聞きたいとレコードを買った。コーリン・デーヴィス指揮、BBC交響楽団及び合唱団。LP3枚組のものだ。
  

五十嵐喜芳さんのリサイタル
 最大の問題は、制作費だ。当日のチケット販売では到底足りない。それより前に、セットを作る、衣装にかかる布地も買わなければならない。橘は、考えていたようだ。ある程度の完成の見取り図が出来てきたのを元に、オペラ歌手の五十嵐喜芳さんに、舞台創りのために、大隈講堂でのリサイタルをお願いしたい、と交渉することになったのだ。
 交渉の現場には行っていないが、協力には喜んでくれたという。このチケットは、けっこう売りやすかったようだった。大隈講堂の座席は1.123、全員で賭けをした、何人入るか、一番近い数字のものに「サッポロジャイアンツ」。当時販売されていた、取っ手のついた大きなビール瓶、私が1.100で勝ち。勿論、全員で飲んだ。

 当日のことはよく覚えていない。前日から泊まり込みで、道具や衣装の点検をしていた。夜、下級生に酒と食い物買ってくるように頼んだら、一升瓶とチョコレートパンを買ってきた。勿論食べたが、以後しばらくは、チョコレートパンは食えなかった。
 時間の感覚も無くなっていたが、開演時間だったのだろう、舞台の方から、聞き慣れた、オーバーチュアが流れてきた。皆、手を止めて聞き入った、ようやく始まった、と。終わりも覚えがない、ブタカン(舞台監督)が終わった、と。カーテンコールだから学生服着て舞台に、と言われたが、私はもとより持っていない。どんな格好していたのか。

 記念の写真の類もない。オープンリールのテープを取っていたはずだが、誰かが持って行ったきりだ。唯一、後日の「芸術新潮」(新潮社)に半ページで紹介された。エレクトラのアリアのシーンだったと思う。モノクロ写真だった。

 実は1月15日は、卒業論文の提出日で、おのれ等はいつの間にか書いていたらしいが、私はハナから諦めていて、半年の留年が決まった日、になった。


 ほぼ1年間を要した舞台制作だったが、授業単位に 数えられるものではない。留年が決まって4月、こんな立派な学生証を作ってくれた。どうも、自作のようにも見えるが、ハンコはきちんとしている。写真付き、今までの学生証がどんなものだか覚えていない、多分、これと引き換えに没収されたのだろう。
 右は、卒業試験の合格証。自宅に送られてきた。手書きで「授業料完納のこと」としたためてある。そう言えば、卒論を9月初めに提出、半ばに教授との面談になった。2年になったときに新しく出来た文学部校舎、(国連校舎と言われていた)ここでの授業経験はあまりない。教授に会った途端に“卒論は通しますよ”と言われた、更に“製本は君のものが一番だ”ともいわれた。
 まあそうだろう、バイト先の出版社の作業室にあった廃本の中から、たしか、ハードカバーのレース編みの本、表紙だけ外し、白いカバーでくるみ、まだ筆先は確かだった父に、表題を書いてもらった。

 文学部校舎で思い出したが、記念会堂が新しく作られ、スポーツや集会に使われていたが、
『初めての宇宙飛行士・ユーリ・ガガーリン』が講演するというので覗きに行った。遠くて顔もわからなかったし、話もわからなかった。
 という訳で、卒業写真もない。

閑話休題

 昭和の黄金時代と言われる30年代を、高校、大学と7年いや、7年半過ごした青春時代は忘れることの出来ない、楽しくも、懐かしく思い出されることが多い。そんな昭和30年代を書いたのが関川夏央氏、昭和の書き手、として評価の高い人だ。表題にあるように「岩波書店 創業百年記念文芸」として刊行されたもの。出版社も著者も、力を注いだ書籍だ。ネットで内容も検索できるし、書籍も手に入れられる、昭和レトロの幾つかの端緒を見つけられると思うので、是非、手に取ってもらいたい。
本体1.500円 +税
 氏には昭和を扱った書籍が多い。代表的なものに「昭和が明るかった頃  文藝春秋」。私が持っているのが「寝台急行昭和行  NHK出版」1.400+税。乗り鉄、を自認する氏には、鉄道エッセイなど多数ある。

 
早大5年生のダブルワーク
 「杜部源三郎」で一週間の地方公演は、滞在費が各自持ちだったせいて、姉に迷惑をかけた。直後から、これから先の授業料は、自分でなんとかしなければ、という意識が強くなり、バイトに勢力を注ぐようになる。学校にいかないでバイト、の日が続くように。
 国定忠治役をやった男に、出版社の作業所のバイトを辞めるので、代わりにやらないか、と声をかけられた。湯島にある「同志社(後の婦人生活社)」。すぐにお世話になることに。配送などの仕事以外に、当時出版されていた月刊誌の編集部「お使い」を任されるようになった。コピーが無い時代で、原稿の依頼、受取などは電話と郵便、或いは直接受け取りに出向くことになっていた。
 雑誌は、フアッション誌の「服装」。受け取りに行くのは、デザイナーの先生が中心。芦田淳さん(後の美智子皇后のデザインを担当することになる)、西田武雄さん、水野正雄さん、鈴木宏子さんなど。原稿の依頼がどのように行われ、どのような形で返ってくるのかを、いながらにして、教えられた。

「イドメネオ」が終わって、全くやることがなくなった。スタッフの一人、照明を担当していた男が卒業と同時に「有馬照明」という舞台照明を専門にする会社に入っていて、人手が足りないからやらないかという。社員とは違って、主に週末に行われる「労音」と言われる鑑賞組織のためのジャズコンサートの舞台照明の仕事だ。夕方6時ころから仕込みが始まり、9時過ぎに終わり、機材の撤収が終わって帰るのは12時近く。
 仕事はきつかったけれど、生のジャズが聞かれるので楽しかった。出演は「原信夫&シャープスアンドフラッツ」「有馬徹&ノーチェクバーナ」「藤家虹二クインテット」 コミックバンドの「伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ」 シャンソン歌手の「芦野宏リサイタル」 アメリカから来日の黒人編成・デキシーランドの「ジョージ・ルイス」などなど。

余分な話
 婦人生活社のアルバイト代は時間、100円だった記憶がある。近くの天ぷら屋「いち徳」のランチが120円、この範囲は会社が負担してくれた。7時間、週5日。
 有馬照明のバイト代は一晩1.000円。大体週2~3回。
 この後、就職することになる婦人生活社の初任給が20.000円くらいだたから、かなり稼いでいたことになる。よく飲んだ、学校帰りによく行った高田馬場駅近くの「養老乃瀧」当時、一級酒・120円、二級酒・100円、お酒(合成酒)70円。つまみの煮込み25円、これ食べすぎると悪酔いした。

昭和39年(1964)
東京オリンピック
 バイト中の10月10日、昼休みに駐車場でキャッチボールしていた時、青空に、五輪のマークがきれいに見えた。作家の
杉山隆男氏のエッセイによると、このマークが見られたのは、東京でも、当の渋谷区、新宿区、文京区の一部だったという。氏は下宿先の物干しから眺めたそうだ。

 オリンピック中だったと思う。会社の専務に10月15日付けで卒業できると報告に行った。専務から“入社試験うけてもいいよ”と思わぬことを言われた。まあ、来年の就職を狙っても、3年間で優が7つしか無かったようじゃ、学校推薦もおぼつかない、どうしようかと思っていたところ。嬉しかった

入社試験
 その月のうちに試験があった。試験場は会社の会議室、入ったことはない、20名程度の学生、勿論、下級生だ。内容は「デパートを取材してレポートを書くこと」午前中出かけて取材。
、午後1時から会議室でレポート作り。私が選んだテーマは「上野松坂屋 ベビー用品売場」タイトルは『ここにも下町気質 熨斗目が売れる所』。婦人雑誌社には格好のテーマだったと思う。長年のバイトの経験の賜物か。所謂、常識問題も10台。この試験、後に社長から
『伊藤野枝』の設問に『明治の婦人運動家』と回答出来たのは私だけだったと喜ばれた、と聞いた。

後日、こんな本を見つけた。伊藤野枝 伝  栗原 康 著 岩波書店 1.800円 税別

 試験終わって数日後、専務から“入社認める“、と直接言われる。いや、ホッとしたこと覚えている。結果は、営業職に2名、婦人生活編集に2名、私はバイトで馴染みのあったことだったか、会社でも予想していなかった、フアッション雑誌の『服装』へ希望出して認められた。苦戦の始まりだった。

昭和39年(1964)
株式会社婦人生活社入社

 会社は、講談社で雑誌編集長をしていた原田常治が「同志社」として興した会社。38年に婦人生活社と改称した。私は、新生・婦人生活社の一号社員だったのではないか。
 当時「戦後四大婦人雑誌」と言われた「婦人倶楽部」「主婦の友」「主婦と生活」と肩を並べるまでの雑誌の発行元だった。家計簿を付録に付けた新年号はどの雑紙も100万部を発行する、婦人誌の全盛時代だった。
 私が配属された「服装」は、文化服装学院が機関誌として発行していた「装苑」、杉野トレスメーカー女学院が機関誌として発行する「ドレスメーキング」、そして田中千代服飾学園が機関誌として発行する当誌であった。

 翌年を待たず、11月から編集部へ入った。誠に、アナログの時代であった。出勤簿は役員の机上のファイルにハンコ、この時初めて、自前のハンコを作った。電話は交換手を通す、外にかけるには“外線お願い”かかってくるのは、部屋に数台の受話器に指名で。困ったのは冷房がないこと、扇風機は原稿が飛ぶので禁止、女性副編集長は身なりに厳しい人で、オーバーシャツなともっての外。
 仕事柄、夜半までかかる事が多く、会社では10時を過ぎる頃の仕事に女性社員の帰宅には、タクシーを使わせた。電車の本数も少ない時代、独身女性も多かったからだ。
 給料は現金、封筒に入ったものを社長が一人ずつ配って歩いた、アルバイトにも手渡ししていた。ボーナスは夏冬、2ヶ月、この頃は社業も良かったのだろう、秋に1ヶ月の手当が出た。家庭持ちの社員の中には、家庭に報告することなく、ポケットマネーにするのが居た。

 これは会社に入った翌年の正月明け、初出勤の日の写真。多分、社長の挨拶があって、お神酒が振る舞われて、部屋に戻った部員を写真部の男が撮ったものだ。正月で着物姿も多い、そんな編集部だった。

 この年の春の彼岸、母がガンで死んだ。61歳だった。
『孝行をしたいときには、親はなし、さればとて、墓に布団は、着せられず』という格言を身に沁みて感じたときだった。
 葬儀の時、通夜に社長が来てくれた、総務の女性と、私の上司と一緒に。私の実家は、実に葬儀に向いた作りになっていた。玄関入って3畳の上り框、奥に八畳で祭壇、隣の六畳二間ぶち抜きで通夜振る舞いのできる和室。社長は“通夜振る舞いは、なるべく賑やかな方が良い”と近所の奥さんたちも手伝ってくれた料理を食べてくれた。アルバイトで2年も世話になったといえ、社員になったばかりの家にやってきてくれて、ありがたかった、そんな風土のある会社だった。

昭和40年(1965)
 社員生活始まる
 会社には入ったが、編集は勿論、素人、重ねて、もっと重ねて、フアッションのことなど、全くわからない、ある種強みは、アルバイト時代にデザイナーさんと顔なじみになっていたことぐらいだった。
 以後、10年近くを編集部で過ごすことになるが、あれこれ思い出しているときりがないので、仕事の様子は『キセル乗車』ならぬ『キセル仕事』で初めと終わりだけにして、途中は幾つかの
『閑話休題』とすることに。

 担当が二つ決められた。
女性下着
 男性新入社員に下着の担当。編集長もいろいろ気を使ってくれたのだろうけれど、何もわからなければ、分かりやすいもの、と考えたかもしれない。今の時代、アイドルからタレントに、自分のブランドのランジェリーを立ち上げ、自らモデルにもなる、というようなことなど考えられない時代。下着は、洋服の下に着るもの、というだけのものだったから、わざわざ編集部員を担当させる必要もなく、メーカーのニュースを掲載するようなものだったようだ。

 名刺をもらって、各デパートの売り場主任さんに挨拶、何人かの人に、メーカーを紹介された。
「ワコール」だった。当時、浅草橋に本社が有り、女性の広報者を紹介された。珍しいと思ってくれたか、以後、いろいろな資料を提供してもらった。
 この広報の方には、以後、長くお世話になった。ワコールの京都本社が落成したときは、工場見学に誘ってくれた。各誌の担当者数名と京都へ、勿論女性ばかり、“あんた、だれ”みたいな目で見られたが、早々に広報女性に挨拶しているところ見られて、納得はしないが、同業と見てくれたようだった。
エッセイ担当
 本誌に連載されていた「R・Nの珈琲館」というエッセイは人気の記事だった。著者はエッセイストで人形作家でもあった、小柄な中年男性。現在の私が「男女不明瞭」と勝手に言っている人。助手でマネージャーのTちゃんも同じ人、背が高く若い。こうした人に出会うのは初めてだったが、あまり違和感も感じずに仕事始めた。編集部の女性では担当できない、と副編集長が担当していた。
 原稿はお任せで、原稿を貰いに行くだけ。上北沢の家に行くことが多かった。(因みに、上北沢は世田谷区の住所表示のある町、下北沢は無い、下北沢は人気の街だが、上北沢は、ふつーの住宅街)。待たされた部屋は、床もカーテンも黒、という部屋で、他の部屋は見たことがなかった。
 時折、六本木の霞町にある、そのテの人が集まるバーに呼ばれた。行けば必ず一杯飲んで、30分ほどはおしゃべりしていた。お二人の友人みたいに、認められていたかもしれない。

ビートルズ来日 武道館で観る
 昭和41年(1966)
 当時、雑誌記者協会というものがあり、その中で「芸能記者クラブ」があった。各誌1名が登録されており、私もその一人。公演当日用に、取材記者証という腕章が送られたきた。ただし座席はなしの立ち見、撮影も不可。仕事仲間だったデザイナーとカメラマンのカップルは、二人で40数枚のはがきを出し、それぞれ1枚を獲得して喜んでいた。前座で出演した
「ドリフターズ」が、後年、あんなグループになるとは、夢にも思わなかった。公演は、本誌に全く反映されなかった。

加藤登紀子 オンステージ
 旧同志社から婦人生活社になって10周年。丸の内の
『パレスホテル』で記念パーティーを行うことになった。まだ高層のホテルなどが出来る前、都内でも名門のホテルだった。どういう経緯でお鉢が回ってきたのかはよく覚えていないが。ステージでなにかやれ、ということだったのだ。前年、初めての「新人 シャンソンコンクール」がシャンソン歌手の石井久子さんが主唱する石井音楽事務所の主催で行われ、加藤登紀子さんが優勝。この時の歌『赤い風船』が、この年、日本レコード大賞をとっていた。
 演劇科の一年先輩に、この事務所に入っていた男がいたのを思い出して、出演交渉。了解してもらった。社員の何人がシャンソンを理解して、加藤登紀子を知っていたかは疑問だが、演歌の歌手など呼ぶより、会社の船出にはふさわしい、と思ってくれたのだろうと思う。

 ところで、当日のことは、殆ど覚えていない。加藤さんと一緒にステージに乗ったのだけれど、ナニをしたのかを全く覚えていない。多分、大いにアガっていたのだろう。加藤さんがすべてを仕切ってくれたのだと思う。加藤さんどんな気持ちだったかは分からないが、彼女にとっても、おそらく初めてのホテルのステージの場、だったのではないか、と思っている。

 この年の秋の彼岸に父が死んだ、69歳。逗留先の吉祥寺にある長兄の家で。就寝中の脳卒中だった。

料亭の大広間で結婚披露宴
 昭和43年(1968)
 相手は私より1年前に入社していて、翌年退社していた。母親から“いくらタクシーで帰ると言っても、夜中まで仕事させるのは駄目だ”といわれたらしい。
 兄たちを含め、友人たちの披露宴も何回か出たが、テーブルで、酒に執着していると、いつの間にか料理が片付けられる、という西洋スタイルが続いていて、私は、座敷で、眼の前の膳に料理、酒をゆっくり飲める、和風にしたいと常々思っていた。相手も、渋谷育ちで、見知っている料亭での披露宴を楽しみにしていた。意見一致で、渋谷松濤にある「料亭・観光荘」でやることとなった。




55年前のビデオテープ。当時「ビデオテープでもう一度」というフレーズが流行った。

 賑やかな披露宴になった。為に、私は2ヶ月前から、正座の練習、まあ子供の頃は、全員正座で食事していたから、あまり苦にはならなかった。出席してくれた御婦人たちは、和服で大変だったのではないか、と思っていた。下の写真左手に三脚が見える。これは、仕事仲間が始めたビデオ撮影のためのもの。ビデオが始まったばかりで、式の様子を撮影して、翌年の結婚記念日に出張してビデオを見せる、という仕事を始めたのだ。モデルケースなので無料でやらせてほしい、と。翌年10月、実家で撮影会をやった、きれいに取れていた。いわゆる、動画を自分で見られたという、初めての経験だった。
 新宿の彼女の知人が経営する「ゴーゴーバー」で二次会。

 旅行は神戸有馬温泉。翌朝、チエックアウトしようと広間に出たら、大型のテレビで「男子マラソン、
君原健二が2位でスタジアムに入ってきた」と放送。メキシコオリンピックの最中だった。昼に、念願の「三宮テキサスターバン」でカエルのフライを食べる。鶏肉より柔らかい。子供の頃に、水田や家の前の小川で捕った食用カエルを焼いて食べたが、はるかにうまかった、かなり太い足だったから、かなり大きなカエルだったのだろう。
 私はかなりの偏食家ではあるのだが、珍しいものは色々食べた。中で忘れられないのが中国上海で、地元に住む友人夫妻と、友だちがやっているという小さなレストランで食事、大きな椀にたっぷりのスープ、塩味で美味しい。何杯か小鉢にとって、そろそろ終わりか、と思ったら、底に蛇のぶつ切りが残っていた。そうか、そういえば、何件かの店の前に蛇の入ったガラスケースが於いてあった。
 以来、蛇のスープは飲んでいない。カエルのフライも食べていない。

初めてのヨーロッパ旅行
 昭和44年(1969)
 編集部の女性たちが“フアッション雑誌の編集人たる者が、ヨーロッパを知らずして、なんの編集者か”と意気投合して旅行に行くことに。とは言っても、いきなり渡航費用が準備できるものではない。そこで全員で、1年掛かりで、貯金をし始めた。旅行会社の近畿日本ツーリストで見積もりした金額は、17万円。当時のレート、1ドル=360円の時代。出発前、社長からポケットマネーで、各自1万円の小遣いが出た。けっこうな金額だ。我が連れ合いは、退職し間がなく、顔見知りばかりなので、夫婦で同行。当時、ヨーロッパ行の航空機は、アラスカのアンカレッジで給油、北極圏周りで時間がかかった。アンカレッジには後述するが免税店があって、洋酒やタバコなどを注文しておき、帰りの便で受け取る、というようなシステムになっていた。

 機内同乗した人たちに、
ノーキョーさん(農協=農業共同組合)がいた。腹巻きに札束詰めて、いわば前代の爆買いツアーの方たち。アンカレッジで、早速牛皮のベルト鷲掴みのおじさん。洋酒頼むのは「ジョニ黒=ジョニー・ウォーカー黒ラベル」が人気。

 イタリア、ローマ(ナポリのオプション有り)。スイス、ジュネーブ(マッターホルン観光)。フランス、パリ(ロンドンのオプションあり)。旅程内容は省略だが二つだけ。マッターホルンはエレベーターで上る。“上では大声を出さないで、走らないで、空気が薄いです”と注意。我が連れ合いは、展望に着いた途端“気持ち悪い”とダウン、何も見ないで降りた。降りた途端“お腹すいた”。
 パリ行きのヒコーキ、手配ミスで数名が乗れないことに、列車移動に変わる。それでも希望者多く、列車で。途中レマン湖の駅で時間調整、湖で白鳥見る。初めてコンパートメントの列車に乗った。
 
パリ行きの列車は1等車      レマン湖の白鳥は観光客かいつも餌をやるので、全鳥デブ、チャイコフスキーが見ていたら、あの名作は生まれなかったかも。
 
セーヌ河畔、古書店街。              元祖、エッフェル姉さんたち。
  
エッフェル夫婦。           もう観られないノートルダム寺院前。

ノートルダム最上階近くの回廊から、パリ市街を眺める。

閑話休題
 昭和44年、映画『男はつらいよ』の撮影開始。私の生活には関わりがないが、日頃の遊び場、江戸川と柴又が舞台とあって、少し紹介。

新潮社 1.800円 文中に「寅さん」の出で立ちや、江戸川からの展開などが、準備されていたことが書かれている。

 のどかな江戸川堤、遠く、浄水場の取水塔。矢切の渡しは現役。
   
 帝釈天から江戸川へ向かう道に、石柱の塀がある。最後の方に、渥美清の名が彫られた物がある、その後ろには、三崎千恵子の名も。ほとんどの人は気が付かない。

初めての海外取材
昭和46年(1971)
突然だったが、クルーズ船の乗船取材が舞い込んだ。当然パスポートもまだない。日程では間に合わないが、会社の渉外担当がテを回したようで、直前に入手、そんな事ができた時代か。
「コーラル・プリンセス」という船。東京と香港を結ぶ航路で就航している。横浜から乗船、乗客は、会社の研修旅行の男女の一群。フリーで乗っていたのは、私以外は、作家志望「ペンネーム 岳 真也」と友人、他。船にはフィリピンのバンドが乗っていて、夜はコンサートが聞けた。黒潮に乗る最初の夜は、船酔いで、食事に現れたのは数名。次の台湾海峡は難なく通過。
 取材は船だが、香港も書かなければならない。事前に、唯一調べたのが、キヤットストリートにある石の判子作りの店。篆刻文字で作ってくれる、一日あれは出来るとあって、まっすぐに行き注文。干支も乗せてくれるという。出来たのが、これ。以来、機会があれば、利用している。


昭和47年(1972)
長女誕生
 モントリオールオリンピックが開かれた年でもある。東京オリンピックの年に会社に入り、メキシコオリンピックの年に結婚し、この年になった。
 会社では年に何回か「社員総会」なるものが開かれた。社長の挨拶があり、各部持ち回りで、代表がスピーチ、その後小宴が行われる。ジャックが当番になったとき、このオリンピックと家族の節目になる話をしたら、営業の誰かが次のオリンピックは辞めるしかない”なんてヤジを飛ばして笑い誘ったが。案外、早く、その時がやてきた。休刊は突然にはやってこない。月刊誌・服装は、長い間、本誌におんぶされてきた歴史があった。婦人雑誌も転換期を迎え、部数も減少してきた時期、編集長を換えたりと、苦戦が始まっていた。

昭和49年
雑誌「服装」休刊
2~3ヶ月前から、社長から直接知らされた。部員は皆若かったので、案外悲壮感はなく、残りの雑誌は思ったことをやってもいい、と言われていたので、自分のプランを最後に残したい、とむしろウキウキしたような数ヶ月を過ごした。最後の雑誌が、これだ。

 モデルは、秋川リサ。数年間、専属のように登場してくれた。
 準備していたとはいえ、1ヶ月で274ページをよく作った。私はこの時期、担当ページはなく、進行を仕事にして、印刷所との調整をしていた。一部を紹介。
 
本誌から 
大橋 歩さんのページ

 

原田 治
さんのページ

 
ペーター佐藤さんデザイン・製作のページ
本誌のイラストや、撮影でお世話になった、ペーター・佐藤さんから、自宅へ、年賀状を頂いたときのもの。

下世話な話で恐縮だが。退職金は、その時の給料に勤続年数をかけたもの、私は月給10万、10年務めたので、百万円を現金でもらった。 

退職祝い 一人旅 
 1月末、店頭に並ばない次の号の発売前まで、整理のため一人で出社。
 退職金の一部をもらって、かねて楽しみにしていた一人旅に。
 車も免許も持っていないが東名高速道路を走りたくて、名古屋まで定期路線バス。
 京都から山陰線、鳥取で砂丘、この時期山陰は大雪で、砂丘は雪原だった、観光バスは私一人だった。
 津和野、小高い丘で休んでいたら、下の学校から、ブラスバンドで、蛍の光が聞こえてきた。蛍の光をブラスで聞いたのは、前にも後にもこのときだけ。
 下関から山陽を上り、大阪から和歌山へ。那智勝浦で小学校教員をしていた大学同期の家に、少し逗留、帰途、鳥羽二見から、乗ってみたいと思っていたホバークラフトで蒲郡。

    手間隙かかって、面倒くさい、編集なんかやめて
      モノの売り買いは楽しそうじゃないか


異業種参入
 2~3ヶ月は何もしない、と家に宣言していたのに、帰るまでに就職の話が来ていた。服装の副編集長をした女性から、紹介したい会社がある、と言う。断るわけにもいかず、ある日面接。四谷・左門町にある小さなビルの一室。輸出用のカセットデッキの化粧箱・段ボールを作っている。と言っても、工場ではなく、段ボール、発泡スチロール、金型、印刷なとの下請けを使っている会社。電子機器メーカーが取引先。私の出番はなさそうだったけれど、来てほしい、ということで、お世話に。

 社員7名。社長は日本大学で自動車部に入っていたという、アメリカ製のでかい車に載っていた。営業部長は元陸上自衛隊・降下部隊出身。デザイナーの杉山コウキさん、彼は三人兄弟、長兄は
杉山登志という。伝説的なCMプランナー、天才的と言われ、資生堂のコマーシャルなどで活躍したが37歳で自殺した。経理の女性藤本さん、息子さんの藤本俊さんは、モントリオールオリンピック男子団体で金メダルを取ったときのメンバー。更に、社長は、日本画、『鯉』を得意にしていた、大山忠作画伯の義弟にあたる人。いろいろな謂れのある人に囲まれたが、とくに影響するものではなかった。
 ただ、少人数とは言え、男性に囲まれるという、体験のない、落ちつかない生活が始まった。さしたる事件もなく、2年ほど経ったとき、突然得意先が倒産、絵に書いたような連鎖倒産を経験した。

 まあ、生まれて初めて、フリーの身になった。

異業種 その2
 なんとなく給料生活をしてきたので、少し焦りも感じてきていた。と言ってもまだ出版の仕事には戻りたくない。そこに、学生時代から芸能界を泳いでいた男から、連絡、なんとなく、まだ、同期たちの動静は、生きていた。
 オランダからの輸入化粧品を扱う、会社。単品、高価な商品、男性を探している、というので、商品はともかく、商品を販売するという業態に、惹かれたこともあって、「面接」を受けに行くことに。

 実はこの仕事の経緯は、このサイトの別項で詳しく書いているので◇美容 スキンケア ジャックの化粧マン生活」を、この際、読んでみてはくださらないか。

 という訳で。
 全国の化粧品、雑貨などを扱う化粧品の問屋・代理店の営業マンに対しての、商品説明会に出向くことになった。各都市にある会社で行うこともあり、工業団地にある営業所に出向くこともある。北海道を除く、各都府県を、一週間で3社ほど回る定期的な営業生活になっていった。ここで覚えたのは、各都市を回る為の効率的な交通機関の利用法だった。大判の時刻表で、行程を探すのが楽しみになった。
 関西地区は、東京の問屋の関西担当と、その都度同行して、地元の問屋の営業担当を紹介され「同行販売」という文字通りの対面販売もやっていった。特殊な商品のため、すぐに販売に結びつくということは少なかったが、地方の販売員には面白い商品として、認められていった。
 定期的に注文が東京の問屋に入るようになり、また、地方の美容院や化粧品店からも注文が入るようになるまで、3年の面白い営業だった。

 退社の決断は潮風と共にやってきた。
 当時、娘は小学校低学年、我が家は、千葉県の外房、九十九里に面した蓮沼、というところにセカンドハウスを持っていて、夏に遊びに行くのが例になっていた。何日かの休みをもらって海に行き、潮風に吹かれていて、突然“辞めようか”と思った。こうしたときの決断は早い。東京に帰ってすぐ社長に。彼は“俺は、この先もずっと一緒にやっていけると思っていたけれど”といったが。案外、簡単に認めてくれた。商品に愛着もあったが、飽きも来ていた。

         
染み付いていた、インクと、紙の匂い
昭和56年(1981)

アメリカ、一ヶ月 取材旅行
 前回のパッケージ会社を退職したときも、事の次第、は婦人生活社の担当役員だった上司に報告をしていた、今回も同じように、取り敢えず連絡はしておいた。正直”インクの臭いが恋しくなってきて”いたのだが。
“本誌(婦人生活)で料理担当していたS君が編集プロダクションをやっているが、着付け教室が発行する季刊誌を受けることになった。雑誌経験者が必要”と元上司から連絡。これまた、異業種になるが、ファッションには違いはない。プロダクションは大手出版社の料理本゛受託編集が主な仕事。社長は顔見知りだが仕事するのは初めて。創業からの女性編集者と、男性、女性の若い編集者、フリーの女性のメンバー。
「きもの風土記」という連載ページを担当することに。奄美大島の泥染めの「本場大島紬」や、鳥取の「弓ヶ浜絣」など、早速取材開始。鳥取では、絣の収集家の先生に親しくされ、絣の反物から先生自ら織ってくれた着物を「破格」の価格で頂戴し、今も正月の着物として愛用している。
 この仕事は、後日、この出版社から「男の着物事典」として発行されたカラー版の書籍の編集担当になったり、教室運営する会社の理事長のエッセイの書籍を受託するようにもなった。

 今から見返しても、この年が一番忙しかったと思われる手帳が一冊だけ残っている。
 
1981年版のビジネス手帳。左の日付の8月1日から空欄になっている、この日から取材開始だった。巻末の電話番号欄は一杯だ。次のページもある。前日までに終わらせる予定が、見て取れる。

 仕事が忙しくなった頃。共同経営者で、広告代理店のクリエイト部門でプランナーをしていた上司から、パスポートサイズのカタログブックの制作の話がある。私にやらせたら、という話を持ってきた。大きな金額にもなるが、取材には一ヶ月かかる、というもの。
 依頼主は『デューティー フリー ショッパーズ東京事務所』アメリカ圏中心に、免税店を展開している。私はこのところ、ツアーで旅をしていないので現状がわからないが。海外旅行で、空港について、まず連れて行かれるのが免税店だ。ここでしか注文できにくいものもあり、必要に応じた店舗だったともいえる。ということを経験された方も多いだろう。サイパン、グアム、ハワイ・ホノルル、ロスアンゼルス、サンフランシスコ、カナダ・アンカレッジの6箇所だ。
 当時の広告代理店では、「ページ物」といわれる、取材、編集してページをまたいで、纏まった本にする、というノウハウはまだ無かったように思う。従って、実際のページがどの様になるのかを、ダミーとして見せる必要があった。我が社には格好の仕事になる、とは、思っていた。一ヶ月をかけて、ダミー版を作る、今なら、手元のモニターに、各ページが表現されるのだろうが、実際には、パスポートサイズの、紙の、手作りの、本、を見せることになった。初めて、依頼主のメンバーが揃った会議室で、プレゼンテーションを行った。ただ、私の手元のダミーは、身を乗り出さないとみられない、ので、かえって説得力が大きかったように思う。

 取材者は5名。ディレクター、カメラマン、カメラ助手、小物商品専門のスタイリスト(女性)、それと私、実際に撮影にはタッチしないのだが、商品一つ一つの名称、番号、価格などをカメラに映る限りのものを記録する必要があった。サイパンを皮切りに、一箇所大体4日のスケジューでスタート。それが、8月1日からだった。
 
 取材が始まったときのパスポート、出国と帰国のハンコが見える。実際に作られたパスポートサイズのカタログ。

 撮影4日の中、2日間は免税倉庫。朝、倉庫に入ると、夕方終わってチェックが終わるまで自由に出入り出来ない。余談だが、昼飯はハンバーガーのテイクアウト、私の仕事、で、延々、1ヶ月間ハンバーガーを食べたので、この仕事以来、現在に至るまで、私はハンバーガーを一度も食べていない。いくらテレビでやられても、私の食欲を誘わない。倉庫で驚いたのは、全ての免税品になるものが、大きな倉庫に山積みされていたことだった。あたり前のことだろうが、免税品は、店舗の中で、ガラスケースの中で鎮座しているのが、イメージだったから。他の一日は地元のモデルを使ってロケでの撮影。

 4日の中、一日はオフ。サイパンではバンザイクリフ、グアムは海、ホノルルはワイキキビーチ、サンフランシスコはフィッシャーマンズワーフとアルカトラズ監。滞在中に、作家・向田邦子氏が台湾で航空機事故で亡くなったことを知った、ロサンゼルスはサンタモニカ海岸、アンカレッジは氷河とサーモンフィッシング、釣れなかったが、帰途、地元のスタッフから冷凍の大きな切身のサーモンを頂戴した。
  
 各都市の中から、アンカレッジのページを紹介。

 前述したが、アンカレッジ空港の免税店は賑わっていたが、91年には閉鎖されてしまう。空港でほとんどの人が一時航空機から降りるのだが、町を歩く機会は殆どなかったと思う。私達はいいチャンスで一時、街歩きをした。本来、冬場に来たほうが楽しめたのだろうが、夏で、町もなにか閑散としていた。ムースの毛皮の帽子を見つけた、裏は起毛、現役で使っている。

 この仕事を機会に、広告代理店から、独立して仕事をしないか、口座開設に協力する、と誘われ、、一念発起、独立して仕事をすることになる。以後、書籍、当時盛んだったいわゆる会社のPR誌等を多く手掛けたが、これ以降は私にとっての、懐古、回顧は一段落する。

昭和回顧 日本の事件等 写真集から
  
 

 私が勝手に選んだもの、特に意味はない。念の為、右上・東京オリンピック、ソ連戦。中左・ボクシングフライ級、白井義男の試合。中右・軽井沢時代の、上皇、上皇后さま。下・テロの時代、岸信介と浅沼稲次郎。

昭和回顧 世界の事件、映画など
  
太平洋戦争、硫黄島の激戦。戦勝記念、アメリカ。

ケネディ暗殺のオズワルドとジャック・ルビー。ビキニとミニスカートの時代。

ケネディ夫妻とキャロラインちゃん。彼女は後日、駐日アメリカ大使として来日している。また、ボストン・レッドソックス8回裏の「スウィート・キャロライン」。

  
                      マレーネ・ディートリッヒ

ジョン・ウェイン                  マリリン・モンロー

昭和回顧 
 歌は、このサイトで纏めようがない。そこで、昭和の歌のまつわる本を紹介して、同じく、昭和の歌のいくつかを、手持ちのCDでお見せしたい。

左 相倉久人はジャズ評論家。この本の楽しいところは、眼の前でいくつかの昭和の名曲をかけて、聞きながらリアルタイムで紹介している。中で、私の好きなクレージーキャッツを聞いているので、このCDにした。アルテスパブリッシング ,2.000円(税別)
右 小西良太郎はスポーツニッポン新聞の文化部長を長く勤めた。歌手との交わりも深く、美空ひばりとの話も詳しい。幻戯書房 2.600円(税)。CDは岡晴夫全曲集、20曲


著者の喜早 哲(きそう てつ)はダーク・ダックスのメンバー、“ゲタさん”の愛称があった。
日本放送出版協会 1.500円。CDは「素晴らしき自然とともに 中田喜直ベストアルバム」。デイスク2枚、春夏秋冬の童謡、女性コーラス。

  
藤原正彦は数学者。本人の好きな歌謡曲、いつも高歌放吟するという曲の、詩にまつわる当時の思いなどを書き込んだエッセイ。PHP新書 1.210円(税込み)。右の著者は産経新聞編集委員、新聞連載を書籍化した。こんな歌詞があったのか、と聞き慣れた歌を改めて思い出す。産経NF文庫 891円税別)。

懐古 回顧 の最後に 邂逅(かいこう=思いがけなく会うこと。
 色々やってきた仕事だが、おいしいしい仕事が、無かったわけではない。独立して間もなくのこと、アメリカ仕事を担当していた代理店の男から、こんな仕事の話があった。『ノルウエー船籍の五つ星クルーズ船、
ソングオブフラワー号の処女航海に招待したい』。バリ島とシンガポール間の三航海。強いて、どのメディアに掲載するかは問わないが、できればマスコミ関係の人を紹介してほしい、というもの。一航海2名で三航海10名。

 10名を紹介。私は仕事の同僚と、バリ島からのクルーズ。船上の楽しみは、卑しく言えば、食事とアルコール。朝はデッキで、パン、フルーツ、飲み物いろいろ。昼はカジュアルジャケット着用のランチ。夜は船長主催のウェルカムパーティー、正装、タキシードにイブニングドレス。私はこのために、タキシードを上から下まで新調、パーティーが3回あるというので、タキシードの上着だけグリーンの変え上着を買った。総額20万円ばかり、金額には変えられない機会だったから。
 レストランにはその度にメニューとワインリストが掲載される。ワインは2種類、ご丁寧に日本円の価格も書いてくれている。そうでもしないと、ワインの良さなんて分からないから。
中に、夜も電話すれば、何時でもワインのデリバリーをしてくれた。夜はワインで過ごして昼間で寝ている毎日、という男も居た。話はこのくらい

乗船ガイド。                   バリ島乗船前、歓迎の踊り子と。

左上 タキシード姿、母娘で参加していた令嬢と。右上 ボロブドール遺跡見物。
左下 船上生活、デッキで件の母娘と。右下 赤道まつりの扮装大会。

丁度、コーヒーメーカーのPR誌の編集をしていた時期で、船上の様子を記事にした。

 私のレトロは、ここまで。以後、独立して様々な仕事をしてきたが、それらは、どちらかと言うと、リアルタイムで思い出される印象が強いので。

               
記録

令和6年(2024)
 春の彼岸で実家に寄った折、新しく写真を数点見つけてきた。おそらく、我が家に残っている物の内で最も古いと思われる。両親に関するものだけを紹介しておきたい。


 正装である。台紙に貼り付けてあるので、写真館で撮影されたものに違いない。何時のものかは分からない。少女は私の母である。年齢が分からないが、小学生の入学ではないようだ、さりとて、中学でもなさそうだ。10歳位か。実は、ここで紹介していないが、同じところで撮影されたものがある。祖父茂雄の左に、立ち姿の男性と、祖母よし子と並んで腰を降ろした女性、おそらく、この二人・夫婦が、実の親ではないか、と思われる。さすれば、山下夫妻が養女にもらい受けた記念に撮影されたものではないか、と推察される。
 心なしか、「ハレ」の表情に見えないのは、穿ち過ぎか。
  
 大正11年一月撮影 とある。左から、信三郎 26歳  意喜(七が3つ)子 20歳  
茂雄 48歳  よし子 40歳。撮影は『大分市 中山写真館』とある。実のところは分からないのだが、山下家の実家は大分市にあったようだ。おそらく、両親が結婚して、祖父母と共に大分に挨拶にでも出向いたときのものではないか、と思われる。

並んだ両親だが、よく見ると、二人共、左手薬指に、黒い指輪のようなものを嵌めている。

   御題『嗜む』と付けたい。信三郎のティータイム
  
 この時の月給は、今ではどのくらいか。けっこう、な生活だったろう。

以上の記述のうち、赤字にした事象は、私の調べではネット検索出来たもの。詳しく知りたい方は、改めてどうぞ。
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