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心臓手術!?エーッ それって何なの

 ユフィさん 心臓が派手です
 きっかけは世田谷から豊洲に転居してまもなくの頃、江東区の検診の案内を受けて、近くの宮坂内科医院を受信することにしたのです。豊洲周辺は医療機関が多く、ちなみに地下鉄の通路には、各種の診療所、医院の広告がほとんど、と言っていいくらい。実は転居する前、マンション探しをしている最中に見つけたのが、このみやさか内科医院。豊洲からは少し離れているのですが、一階が医院、二階がカラオケというロケーションに、なにか庶民的な感じがして、気にかけていたのです。調べたサーヤの意見に従ってここにを決めたのです。


 マンションから徒歩15分、そのみやさか医院での検診のとき。「心臓の音が変、とても派手なので、精密検査を」と勧められました。紹介されたのは『昭和医科大学江東豊洲病院』。転居のときにも最寄りの病院は昭和大学病院と聞いていたので納得。初診で担当されたのが心臓内科の池田尚子先生。宮坂先生からは、なるべく早くに手術を、との言伝があったようですが、“宮坂先生がおっしゃるとおり、雑音は少し大きいですが、差し迫った状態ではない”とのことで以後、定期的に受診して経過を見ましょう、とのこと。心配なような、安心したような、落ち着かない日々が続くことに。

 それからは春と秋に定期的に心音検査を続けました。そして令和4年の秋の検査で、異常が…。いつもの通り、服の胸元を開けての長い心音検診の後、立ち上がる際にめまいが…。初めての検査があり、時間が少し長かったことと、研修医が加わったことで緊張があったか。めまいの原因はそれしか思い浮かばないが…。少しフラフラしながら検査室を後に。後日、このとき、付き添いがなくて大丈夫か、と池田先生は心配したという。

 このときも「今の状態では、手術はまだ必要無し」との答えが…。しかし、後日電話があり、急遽別の検査が必要になったたと。常々主治医の宮坂先生から、今回の手術は弁を広げることで楽になる、と言う話は聞いていたのですが。再検査の前日、夕方に突然激しいめまい、嘔吐感も激しく経っていられなくなり、リビングの椅子に座り込んだまま動けなくなったのです。ジャックは救急車を呼ぼうと言ったのですが、ここで、別の病院へ運ばれたら診療が変わってしまうかも、と思い、なんとかベッドに運んでもらい就寝。

 翌日は平常に戻ったので予定通りに池田先生の検査へ。ジャックが、昨夜のことを話したところ、心臓の影響がなかったとは言えない、とそのまま入院手続きへ。手術を前提としての入院となりました。電話でそれとなく入院の話は出ていたので、ある程度覚悟はしていた…。しかし、急な話なのは確か、手ぶらの状態でナースステーションの近くの病室へ。まさか、長くお世話になるとは思っても見ませんでした。


 その日、突然の入院 手ぶらでどうする
 一応「入院」の覚悟はしていたが、何も用意が無い。おむつ、入院着、すべてを借りることに…。この部屋、費用は少し高い部屋なのですが、保険金を計算して「すこしでも楽に」と選びました。
 4階、手術を待つ入院で不安はありましたが、居心地は良かった。ガラス窓が広く大きい、水上バスの出入り場が視える…。朝夕の出勤やランニングする人、自転車で通る人、犬の散歩と観ていて飽きない。夕方にはビルに燈が灯り、明け方には薄明、夕方には夕日の射す風景。


 何がどうなっているのか、詳しく池田先生に聞くまではもう「まな板の上の鯉」状態…。
10月の5日土曜日が詳しい説明と入院の日でした、親子3人で池田先生に説明を聞いた。「もう、どうにでもなれ」状態のユフィ、真剣に聞くジャックとサーヤ。
 手術が決まったことで、外科の先生の検査も始まりました。その後検査に検査を重ね、人工弁を付けるだけの手術ではないと理解し始めました。宮坂先生の「心臓の音が派手」は、脚の付け根から人工弁を入れて付ける、簡単な手術では無い可能性があったということなのです。
 ユフィにすれば「もっと早くに…」の思いはありますが、時が来なければ分からなかったのか…池田先生曰く、「現在この病院で最高の心臓医学の医師を確保、交渉中」とのこと。
キャンセルなどがあり、なんとか手術日も決まった。で、せっせといろんな書類にサインをし、20日の手術日を迎える。

 私の心臓そんなに悪かったの
 手術の内容を改めて知らされる。
 執刀医師は山口裕巳先生、病院の外科の責任医師と知らされる。家族と池田先生、事務の女性も一室に集められる。山口先生から、ご自身はアメリカを含む海外の病院で、手術の経験があるとの話を聞いて、とても安心感が増した。山口医師から内容を改めて知らされた。以下がその内容、専門用語が並んでいるが、なんとなく、大変なことだ、と改めて緊張。
○大動脈弁置換術
○左室流出路心筋切除
○冠動脈バイパス術
○左心身切除術
以上に一時的に人口心肺 術中自己血回収術


 手術日前に様々な準備。入院して15日間、とても多くの検査があり、朝晩の看護師の調査もありの毎日。術前の病室では、身体拭清とシャワーは無かったのが不思議。術後の入院室では、毎日頻繁に来てくれたのに、術前は慎重にしていたのか?

 その分、術後の体の動きに備えて、理学療法士が付いた。1日に1回、側に付き添って運動を手伝ってくれる。初めは脚の上げ下げから、腿の運動まで習慣化を手伝ってくれた名札を皆、付けているのだが、鶴の絵が付いていて鶴田さん、人の名を覚え難いユフィにも凄く覚えやすく、親しみやすい女性の方だった。手術後もお世話になった。

 術後「集中医療室・ICU」に移るのだが、術後では驚くので先に案内してくれた。手術室の隣、とても広くて明るい、でも殺風景な部屋。この部屋に長い間居ることになる、後でサーヤに確認したら、20日間だったらしい。

 補聴器は持参したが、依然も『音漏れ』に凄く気を使われたので使用は控えた。それで困ったのが一人一台のテレビ、イヤホーンを購入してもらったが聞こえにくい。幸いにも担当だった看護師が、テキパキと整えてくれて約2ヶ月間字幕付きで楽しめた。当然ICUでは使用しなかったが…。

 手術は5時間も掛かった
 手術は5時間も遅れる
『ジャックの記述』
 手術は9時なので8時に来院してください、と言われていたので、7時半にタクシーを予約。5分前くらいになって玄関に降りようとしたら、電話、こんな時間にかかってくることはまずない、間違いだとは思ったが、引き返して電話に。病院からだった“救急患者が入ったので9時はなくなりました”私が思わず“なくなった”と言ったのを聞いたサーヤは、思わず、すごく動揺した(亡くなったと聞こえたため)、と言っていた。結局1時に変更して病院へ行ったが、急患が続き3時に。術後ICUに戻るのが8時ころになるとのことで、家に帰って待つことに。


 20日の当日、麻酔をかける時間になっても動きが無い。この当日にトラブル発生、緊急の飛び入り手術で遅れると伝えられる。で、そんな中手術開始、チャッチャッと済む人口弁の手術でないのは分かっていたが…。長かったみたい、難しい手術だったようだ。

 術後気づいてから何日か、ベッドに寝たっきりで食事も栄養液のみ…。通常の入院生活ではない。酸素吸入もしていたから、身動きもできず、かなり不満も溜まってきて我慢も限界。

 「無肺」ってどんな状態
『ジャックの記述』
 数日後に面会に行ったが、口からチューブが挿入されていて、話ができない、苦しそうだ。看護師に状況聞く。担当の上野医師から説明があった。“人工呼吸器を離脱したが、低酸素状態になり再挿管。同時に「無気肺」(肺がつぶれた状態になっている)のため、肺に水が貯まるので、挿管して排出させている、とのこと。一時、気管切開して対応しようとしたが、体力つけて快方になるよう、現状を続ける、とのこと。



 身動きが難しいから不満だらけ、少し回復後は呼吸器が邪魔で怒り爆発。外す外さないの攻防戦、ついに先生を呼んでもらって楽な呼吸器に変えてもらったりした。暑い・寒い・面倒くさい…、不満は募るばかりで解決しない。自分で何も出来ないから、看護婦さんの目を捉え訴えるしか無いのだ。邪険な看護師もいれば、痒いところまで手を尽くしてくれる人も居る。そんなことで気分はあがったり・さがったりの毎日。

 そんな中、ようやく動けるようになって療法士さん登場。歩行器につかまっての運動が始まる。最初はベットから数メートル、慣れてきてからはICU室の中を歩き回った。時々トイレの訓練もしつつ、ICUを離れる準備も兼ねる。何日間ICUに居たか、記憶が定かではない、後で20日間だったとサーヤに聞いた。ただ、看護師さんと仲良く話せるチャンスがあり、心落ち着く日も増えていく。

 「双六」の後戻り
 ICUから普通の病室に…
 そんな日々の中、テレビの医療関係シーンでお馴染みの『回診』があった。手術をしてくださった山口先生を先頭に、若い先生方やインターンが数名回診する。穏やかに微笑みながら、ベッドの患者さんたちに声掛けしていく。『体調良いようだね』の一言が嬉しいし頼もしい。お年だがかなりのハンサム、白衣がよく似合って貫禄が違う。厳しい顔と優しい笑顔が交互に現れる、安心感が抜群なのだ。

 ある日、ICUの中の個室に移った。正面に『11月◯日退室』とある。じっと我慢の日々からの開放が迫っている。気分転換って物凄く大切。普通の病室に移れる、と分かって、気分は高揚。今までの悔しさ、不自由さ、悲しさが、一気に飛んだのは事実。
 日付は詳しくは覚えていないが、元の病室に移動する。看護師さんが数名での丁寧な搬送とベッド移動、ナースステーションの近く、以前と同じ部屋だが、より入口に近いベッド。

 急変に備えてのベッド移動なのは分かる。遠目に外も見えるし、テレビも若い看護師見習いが字幕付きにしてくれた。サーヤが用意してくれたパソコンは、結局使用しなかった、ごめんなさい。毎日夕方、看護師スタッフが入れ替わる挨拶がある。約2ヶ月間の入院で何交代あったのか、定かではないが一々名前を告げていたと思う。様々な性格の人が、朝の検診・体温・昨日の排尿と排便、細かく訊ねる。


 その後8時の朝食があり、身体清掃・パジャマ着換え、この時にシャワーの有無を聞かれて時間設定、12時に昼食、それから安静タイム、5時に夕食、8時半就寝。午前中の早い時間帯で鶴田先生と運動、歩行器を使用して館内を散歩する状態を確認しながら、歩を進め、「左足が上がっていない」と指摘された。なるべく歩行器に頼らず、入院後半は廊下の手すりを頼りに歩いた。この歩行器が大きい、カーテンの中に収まらないので、少しベットの部屋からはみ出す。

 トイレも歩行器使用だったが、後半は部屋内のトイレには無しで行けるようになった。ここで面倒だったのが酸素吸入器、外したりはめたり、とても面倒くさい。本人は別に呼吸が苦しくは無いので外したいが、担当医師の確認が必要。池田先生頻繁に診に来てくれた、さて、担当の池田先生、入院時から3日に一度は顔を見せてくれる。池田先生がみえると安心感が増す…。すぐベットの左隣に座るか、左耳の近くに口元を寄せて話してくれるのが嬉しい。だから、池田先生と話す時は、話が明快に通じる。

 ともかく、なんでも訴えやすいから、酸素吸入器のことも直訴。で、看護師さんにその旨を伝えて、めでたく酸素吸入器は外された。こうなったら自由、水分補給に度々休憩室に出かけた。

 土日以外はジャックが、土日にはサーヤが来てくれた。ここで面倒だったらしいのが会話。補聴器なしなので伝わりにくい、ジャックなどは多分切れていた…。20分が対面の時間なのだが、メモでの会話なので時間はすぐ経つ。病室に帰るのに看護婦のお迎えが、日々遅くなるし、忘れられる。で、家族が看護師を呼びに行く、手間と時間がもったいない…。

 「退院」患者とっての神様の言葉
 池田先生から「傷口が癒えたら退院」の言葉。待ってました、いよいよ退院?11月最終日が予定されていて、その間が待ちどぉしい…。退院は何時?
 他院の言葉を聞いたら、もうすぐにも退院したくなって心はやる…。手術前には聞かれなかった「シャワー何時に入ります?」の言葉が待ちどおしい。積極的に殆ど毎日シャワーに入った。以前の「めまい」の入院時には、シャワー時間15分間で、服の脱ぎ着も含め全部だったから、凄く焦って髪を洗い体を洗い、しっかり拭くことも出来ないほど忙しなかった。
が、今回はとても余裕があり、しかも殆ど看護師さんがやってくれる。

 手術後の患者と一般の入院者との違いなのかな。だんだん自分で洗えるように、あまり手厚くなくなっていった…。ある日には、一人シャワー室に残されて、髪も体も洗い終わり、自分で髪もブローして、更に待つこと10分くらい、やっと現れた年配の看護師、「あっ、終わりました?」だと…。これで自信つけたけど、手抜きもいいところ。若い看護師はとても丁寧に洗ってくれる、少しずつ手伝いは減っていったけど…。退院が近いのが肌で感じられる程になった。


 面会も寒くなるし、顔を観るだけなので、「別に用事がなければ来なくても」と言った。で、次の日は来なくて、そうするとなんだか寂しい…。何も無い日もあるが、何かしら検査は入って、その間に運動もして、結構忙しい。簡単な心電図検査やレントゲンは、頻繁に入る。
すると看護師ではなく付き添いさんが、車椅子で運んでくれる。歯科医師も2回診てくれて、右下の奥歯をよく磨くよう注意された。

 11月の最終日、退院と伝えられホッとする。ただ、右太もも内側の傷が癒えない…、なんとなくまだ赤みが残っているし…。毎朝軟膏を塗っているが、股間近くの赤みが問題。ただ、この傷、何の為なのかは疑問。誰も答えてくれないから、勝手に人工弁を入れた跡なのか、と思っている。で、疑問、心臓そのものを手術したのなら、同時に手術出来ただろうに…。

 なんとなくまだ乾いていない状態のまま、ユフィの「退院したい」想いが通じて退院だぁ!。
ちゃんと塗薬は続くように持って帰る。そして、大量の薬も出た、朝食後に10種類以上入った袋が沢山で大きな袋。それと夕食後の3粒入りの一袋と、睡眠剤が一袋。歩力に難があるのは自分で分かっているので、ショッピングカートを持ってきてもらった。支えがあるだけで、心強い、様々に増えたものを入れて午前中にタクシーで帰宅。

 猫は知っていた
 その前に、サーヤから「猫は2週間会っていないと忘れる」と脅された。初めて聞いた猫の恩知らずの話。だから、一番の関心事はアムールの動向になる。
 マンションの部屋のドアを開けると同時に「アム!!」と呼びかける。ベランダ近くで寝ていたアム、サーヤが「お母さんだよ」と言うと、ニャーと一声。ユフィの側に寄ってきた来た、みんな一斉に「よかったぁ」と一息つく。


 ユフィの留守中、なんとか食事だけは整えていた様子のサーヤ。次第に手伝いから以前の何もしない娘になるかと思われたが、片付けと食器洗いは現在も続いている。生協は止め、ネットスーパーの宅配にシフト、食料がなくなると注文する…。一番の変化は薬、なんと1回に12種類、薬剤師がベッドまで来てくれ、分包にしてくれたもの。特筆すべきは、朝食後この12種類のみ服用、夕食後に3錠、就寝前に睡眠用1錠。夕食後の3錠入をついつい忘れるのが難点、覚えていれば良い話なのだが…。

 薬で大変な騒ぎに…

 退院から2週間後、検査で通院。池田先生が「何があったの?」の騒ぎになった。肝臓の数値がとても良くない、というか最悪の状態に…。肝臓はもともと悪くなかったユフィ、「退院後夕食にビールコップに半分」飲んだだけ。そんな程度でここまで悪くはならない、12種類の薬のどれかが作用している、とのこと。急遽他の科に診察依頼。、悪影響を与えているという薬を選び出し、「その薬をはぶいて服用」と言われる。
 白くて大小があり、半分に折った薬もある中の小さめの錠剤、裏に字が刻印されているのが目印で、毎朝食後選び出し、サーヤに確認してもらい服用せず。
特定するのにパソコンで薬名を検索、写真で確認してくれたサーヤ。

 それからはユフィ自身で確認、その錠剤は省いて飲みつづけた。で、2ヶ月後後の検診で「物凄く悪かった数値が大分下がり、検査も注意続行」の結果に。ともかく元の数値に大分戻って良かったが、こういう事も起きるんだねぇ。食事の注意も受けていて、朝ドラの栄養士指導みたいなものを受ける。「辛いもの」「納豆」「味噌汁」「梅干し」等々が注意しないといけないらしい。あまり好物ではないものなので、食べられなくても別に構わない。

 2ヶ月近い入院だし、当然飽きたし、それに味付けが薄めなのは仕方ない。
ただICUに居た期間は、食事は無く栄養点滴なので、20日分くらいは食事なしだった。
が、痩せてなかった、残念なことに…。


 介護の数々に驚き…
 時間が2ヶ月近くあったとは言え、サーヤの用意周到ぶりにはびっくり。介護の数々、電動ベットはユフィが頼んでおいたので当然として、風呂場の折りたたみ椅子や、風呂に入れる台、そして風呂用手すりなどの諸々散歩用の椅子付き台車、部屋内の丈夫な手すり、次々に注文してくれた。あれよあれよという間もなく、老人向けの室内になってしまう。ユフィだけではなく、ジャックも年老いて行くのは確かだから、転ばぬ先の杖なんだよね。

 ジャックが付き添っての歩行器の散歩、少しずつ行動を伸ばして行く。年の瀬をなんとか乗り越え、必要最小限のお節で済ませ、鏡餅も小さなものから始め直し、餅も必要な分だけという簡単正月料理。それでもなんとかなるし、不満も無いし…。正月前の年の瀬に「足の巻爪」を治療に、西銀座までタクシーで向かう。もちろんジャックが付き添い、この日から病院はもちろん何処へでも付き添う。

 週2回、訪問介護で、理学療法師と看護の人が来てくれる。できれば女性が望ましいユフィ、何しろ若くて溌剌とした看護師が二人、来てくれる。一人は男性で足の爪を看る、一人は若い女性で運動の補佐をしてくれる。

 不思議なのは猫・アムの態度、知らない人には拒絶反応なのに、傍まで来る。長く滞在するし、ユフィとなにやらやっているし、ジャックとサーヤも一緒に視ているし…。いろいろと重なって興味津々なのだろう。

 なんやかんやの心臓手術ねそして長い入院、初めての体験で気分も弱った…。しかし、家族の思いやり、手厚い看護、文句言ったら罰が当たる。まだしばらくはこういう状態、2ヶ月後の再診はベストな状態で終了、皆様お疲れ様!!
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